谷川浩司王将(当時)「私はいまでも詰将棋は解いてますし、作るのもやっています。それが実戦にも役に立っていると思いますけどね。ただ棋譜を並べるのと比べると、ちょっと非効率的かなという気はしますが」

将棋世界1995年11月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢」(谷川浩司王将)より。

本当に「先手有利なのか」

 ―いまの将棋界に、羽生さんみたいな序盤から終盤まで弱点がほとんどない棋士はどのくらいいるんですか。

 そんなにいないでしょう。昔、米長先生が「序盤の研究ばかりすると終盤が弱くなる」と言われました。あんまり根拠のない説なんですけど、でも何となくそうなのかなという気もするんですよね。

―谷川さん自身、将棋が少し変わってきているでしょう。昔は「序盤がヘタ」と言われたけど、いまは聞かない。

 序盤がうまいかどうかはわかりませんが、昔と比べて終盤はどうかというと、私はあまり自信はないですね。

―へーっ。意外な言葉です。

 いまは終盤のテクニックも上がってきていると思うんですよ。10年ぐらい前まではそうではなく、終盤で逆転するケースが多かったですからね。

―他に変わったところは。

 私が棋士になったころは、いまみたいに、みんな先手番・後手番というのは気にしてなかったですね。中盤、終盤で勝負という感覚で。振り飛車なんか特に「どっちでもいい」という感じだったのが、いまはそうじゃないですからね。

―先後によって作戦がガラッと変わってしまう。

 いろいろ突き詰めていくと、先手番のために、かえって一手余計に指さなくてはいけないから困る、というようなところまで研究が進んでますからね。

―最近、振り飛車が増えているのは、居飛車の後手番は指しにくいという気持ちが反映しているんでしょうか。

 でもデータを見ると、昨年度は後手番の勝率が4割8分くらいあって、わりあい良かったんです。それを考えると、将棋はやっぱり中盤、終盤の力で決まるのかなという気もしてくるんですね。

―後手番は指しにくいと感じている棋士が多いのに、後手番の勝率が上がって来ているというのは……。

 どちらかですね。つまり、実際に思っているほど先手が有利ではないか、それとも現在の棋士が後手をとがめるだけの実力を持っていないか。

―谷川さんは最近、四間飛車をよく指してますが、三間飛車はやりませんね。

 いま後手番の三間飛車って、やる人あまりいないんじゃないですか。急戦されたときに嫌だと思っている人が多いんじゃないですかね。

―四間飛車なら悪くならないと。

 私はそう思ってるんですけどね。

―中飛車をやる人は少ないですね。

 中飛車が得意な人もいますけど、玉を固めにくいから勝ち切るのは大変です。そういうテクニックは、みんなうまくやってるんですよ。どうすれば勝ちやすいかと。ただ、あまり、そういうことを覚えすぎると、肝心の実力が落ちてしまうということはある(笑)。

―落ちるというか、序盤の知識は増えてるけど、それに見合った形で中終盤の力が伸びていないから、力が落ちているように見えるのかもしれない。終盤力をつけるにはどうすればいいですか。谷川さんは以前「私の終盤力は詰将棋をやっていたおかげ」と言ってましたが、棋士の中には「詰将棋は実戦に役立たない」という人もいます。

 私はいまでも詰将棋は解いてますし、作るのもやっています。それが実戦にも役に立っていると思いますけどね。ただ棋譜を並べるのと比べると、ちょっと非効率的かなという気はしますが。

―とりあえず目の前の対戦相手を負かすには、詰将棋を解くより相手の棋譜を調べたほうが勝つ確率は高いでしょう。

 そうですね。同じことを3時間やるとすれば、棋譜を並べるほうが効果はあるでしょうね。

―ただ、長期的なサイクルで考えた場合、果たして、その方法が最善かどうかはわかりませんが。

 詰将棋を作るときに、1日かけて1題もできないことがあるんですよ。すごく時間を無駄に使ってるような気もするんですが、実際はそうでもないのかもしれない。以前、必至問題を何題か作ったことがあるんですが、あれはけっこう役に立つかなと思いましたね。必至問題は、攻め方と受け方、両方を考えないといけませんからね。

(つづく)

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今年に入ってから、棋王戦で渡辺明棋王が中飛車穴熊を、王将戦で羽生善治名人が四間飛車穴熊を、それぞれ後手番で採用している。

たまたまなのか、あるいは相居飛車の後手番に悩ましい変化が増えているのか、どちらにしても後手番が苦労するのは1995年のこの頃も今も変わりはない。

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そういえば、戦前、相掛りで木村義雄十四世名人の「木村、不敗の陣」と言われた戦型は後手番でのものだった。

升田幸三実力制第四代名人の戦後まもなくの「駅馬車定跡」(飛先交換腰掛銀)も後手番。

升田幸三実力制第四代名人は、昭和40年代にも、相居飛車後手番で大胆で自由奔放な指し回しを見せている。

升田流の妖術

谷川浩司王将(当時)が話している通り、相居飛車での先手番後手番が意識されるようになったのは平成に入ってからなのかもしれない。

時期的には、羽生世代の棋士が誕生しはじめた頃。研究会が増えたことも大きく影響していると考えられる。

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棋譜並べは即効薬、詰将棋は漢方薬、ということになるのだろうか。

即効薬は長く飲み続けると段々効かなくなるが、棋譜並べは長く続けても効かなくなるということはない、という違いはあるが。

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余談になるが、酒が強い人は麻酔が効きにくいと言われている。

大学の時に統計学の教授が教えてくれた。

3年前に私は鼻の手術を受けたわけだが、この時は酒が弱くない私にとって幸いなことに全身麻酔だった。

全身麻酔なので、効くも効かないもなく、とにかく効いてしまう。

全身麻酔は、酒の強い人の方が術後の吐き気などなく、影響が少ないという。

たしかに、全身麻酔がスタートした瞬間、「お酒に酔ったような感じになりますからね」と言われて、その直後に気持よく酔っ払ったような気分になり、次に気がついた時は手術が終わっていた。手術が終わった後は、鼻の中から血は出続けていたが、それ以外はとても気分が良かった。

局所麻酔は酒の弱い人の方が、全身麻酔は酒の強い人の方が苦労が少ない、というのは不思議なバランスだなと思った。