将棋世界1973年7月号、朝日新聞の磯山浩さんの随筆「やぶにらみ名人戦」より。
昨年、中原誠名人が誕生するまで、私はいわゆる「将棋デスク」をしていた。7年ぐらい名人戦とつきあった。つきあったといっても同じ社の(龍)記者のように、現場(対局場)にはりついて、設営したり、原稿を書いたりというのではなく、彼の書く原稿や指し手を社内で出稿したり、時には現場へとんでいって対局者や立会人と酒を飲んだりというぐあいで、いわば名人戦の周囲をうろちょろしたわけである。
これまでの名人戦の中で、私をあわてさせ、そして興奮させたのに二局ある。その一局が昨年の大山対中原戦の第七局、もう一つはその前年、大山対升田戦の、これもその第七局である。
大山対中原戦第七局二日目の模様を私は社内報にも書いたが、その社内報から私のあわてぶりの一端を紹介しよう。私はその時、学芸部で連盟の沼春雄三段といっしょに現場から送られてくる原稿や指し手を整理部へ出稿していたのである。
「局面は大山が9筋から、そして中原が4筋から攻め合いとなった。終盤である。中原の玉は見るみるうちに8筋へ追い詰められた。このへんで一手でも疑問手が出たら形勢は逆転する。間もなく夕食休憩。その寸前に大山から疑問手4三竜が出た。しかし私たちしろうとには、その4三竜が疑問手なのか、好手なのかは分からない。沼君にも分からない。何しろ中原の玉はいまや風前の灯という感じなのである。突然升田九段が学芸部へあらわれた。少々酔っている。酔った手つきでコマをとり、局面を検討しだした。”うん、中原勝ちだね。新名人の誕生だよ。大山はきょうの封じ手がまずいけなかった” その時、大盤解説をすませた加藤一二三八段もあたふたとあらわれ”升田先生、大山さんには寄りがありませんね、だめですね” ”ん、寄らない” ―さあ大変だ。夕食後の再開が近い。現場に電話を入れる。田村記者も”こちらでも中原よし。すぐ予定稿を書く” ”じゃ、オートバイを出すぞ!写真部もやる” 七時対局再開。全面取替の記事(予定稿)が電話でくる。西村部長が現場へとんでいった。八時半。一手、一手と大山はまだねばる。カベの時計をみつめてジリジリする……」
私の文章はこのあともかなり長く続くのだが、この午後八時半あたりは、やや冷静さを失っていたことはたしかだ。この引用文の中の予定稿というのは勝負が決まる前に、「中原勝ち」を予想し、新名人誕生までの全局の解説や本人の略歴をあらかじめ活字にして用意しておくことである。つまり新聞には各版ごとに締め切り時間があるので、もしある版の締め切り時間間際に勝負がついてしまったら、急いで解説を書いても間に合わない。その日は、午後まで、「大山よし」の判定だったので、大山さんについてはあらかじめ活字にしてあったのだが、「新名人誕生」となると予定稿も量はぐっと多いし、角度もかえないといけないのだ。
予定稿といえば、その前の大山-升田戦も苦労した。私はいまも「幻の夕刊」の大刷りを大事に保存してある。昭和46年6月15日号(火)の社会面に「升田・名人に返り咲く」という五段抜きの見出しで、中身には「升田九段四勝三敗で十三年ぶりに名人位を奪取した」と書かれてある。ただ投了時間と両対局者の消費時間が◯◯と空欄になっているだけだ。もし升田九段が勝てばその空欄をうずめ、大忙ぎで印刷してしまおうという寸法である。実際、その日の午後二時ぐらいまでは升田九段が優勢だった。しかしこの新聞はついに陽の目を見ずに、たった一枚の大刷りが私の手元に残ってしまった。その夜の升田九段は対局場でしたたかに飲んでしゃべりまくった。余程、残念だった様子だった。大山さんが名人を奪われた夜も、「持っているもの(名人位)は、いつかはとられる」という名文句を記者団に残したが羽織を忘れて帰った。不世出の大名人でも日ごろの几帳面さを失ったような気がした。新名人になったばかりの中原さんは翌日、ブルーの新しい背広をきちんと着て朝日新聞社にあらわれ、大盤解説の台に立った。そして道を埋めた多くのファンからやんやの拍手を受けた。明と暗―私は名人戦を通して勝負のきびしさやら、異様な興奮を幾度か味ったのである。
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中原誠新名人の誕生となった1972年名人戦第7局は、東京・広尾にあった羽澤ガーデンで行われた。
前年の1971年名人戦第7局(大山-升田戦)は、東京・新宿区の富田で行われている。
また、升田幸三九段と加藤一二三八段は、朝日新聞の嘱託だったので、学芸部に顔を出している。
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当時の朝日新聞本社は、現在の有楽町マリオンの場所にあり、大盤解説は、朝日新聞本社の裏手で行われていた。3m四方の大盤。
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あの大山康晴名人といえども、名人位を失った日には羽織を忘れてしまうほどの動揺があったことが窺い知れる。
また、東公平さんの観戦記に、「私は休憩の間に、対局者に絶対に知られぬよう注意しながら外部と連絡をとり、升田九段と加藤一二三さんが『新名人誕生』と断言したことを知った。動悸をおさえきれず、食欲を失った」と書かれているが、その時の朝日新聞社での升田幸三九段と加藤一二三八段の様子が描かれており、とても興味深い。
少し酔った升田九段が中原新名人の誕生を断言するところも、劇的で格好いい。