羽生善治五冠(当時)「白鳥に餌をあげて来ました」

将棋世界2001年1月号、読売新聞の小田尚英さんの第13期竜王戦〔藤井猛竜王-羽生善治五冠〕第3局観戦記「祭りの途中」より。

 経費精算や切符の手配など、東京での煩雑な事務作業から逃れるようにして北海道音更町の会場にたどり着く。と、彼方には冠雪した大雪山系、目前の十勝川には白鳥の大群が訪れていた。鳴き声がかなりのもので優雅というのは適切ではないものの、絵のような別世界のような光景で、なんだか現実感がない。

 タイトル戦の途中は、夢のような祭りのような独特の気分になる。かつて、打ち上げの席で当時の島朗竜王に「今どこにいるんでしたっけ」と問われて驚いたことがある。即答できなかった自分にもあきれたが―。今期竜王戦は、直前の王座戦から続く長い勝負。興奮を引き継いでいる感じで、担当者の私は3局目にして「ここはどこ」モードである。

 北海道での竜王戦は数多い。藤井は二度目、羽生は六度目である。今回は音更開町百年の記念対局でもある。前夜祭で藤井は「北海道は二年前の函館で竜王を取った思い出の地なので勢いよく」、羽生は「大勢集まって頂いた皆さまの期待にそうよう内容の濃い将棋を」と抱負を述べた。

(中略)

 二人の勝負は出だしから息の抜けない争いとなる。羽生自ら曰く「相手は藤井システムで来るので、その対策がポイントです」。ファンもプロも、羽生のシステム対策決定版を期待している。が、王座戦でも現場で戦いを見た島は「羽生さんは決定版にはそれほどこだわっていません。やはり勝負は終盤と考えているようです」ともいう。

 確かに、羽生は居飛車穴熊模様にはこだわらず、多彩な作戦を採って藤井将棋の輪郭を探っている感じを受ける。本局の出だしも過去2局とは異なる。「20局くらい指さないと、本当の相手が見えてこない」というのが、今回聞いた島理論。今はその最中という訳だ。

 さらに島は言う。「二人は、戦略、戦形だけでは相手を凌駕できないと考えています。ではどこが勝負かというと、一手一手の精度です。深く研究して実戦で万全を尽くす。厳しい戦いです」。盤側で見ていても、両者神経を使っているのがわかる。それも初手から。

 さて、▲6七銀と上がった1図が今の藤井システムの基本形だ。

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1図以下の指し手
△7四歩▲4八玉△8五歩▲7七角△4四角▲3九玉△3三桂▲5八金左△2二銀▲4六歩△4二金直(2図)

 △4四角が羽生の選択。ここから本譜のコースと、2一玉型から金二枚を引き寄せて固めるコースがある。

 立会人の高橋は▲3九玉での85分で、「藤井竜王が何を考えたか聞きたかったけど、感想戦では聞けませんでした」と言う。後手の作戦が決まってから考えそうなものだが、両方に対応できるよう改めて熟考したのだろう。

 結果の▲3九玉は普通の手だが、この長考からも序盤の神経戦の一端がうかがえる。

 ▲5八金左では▲7八金として中飛車にするのも有力。高橋は「実戦でそう指されて困ったことがあったので、見たかった」。

 △4二金直で後手の作戦が決まった。△1一飛の「地下鉄飛車」を含みとする戦法である。「やってみたかった」と羽生は終局後にコメントしている。

 2図の後手の囲いには定着した名前はないが、相振り飛車で見られる二枚金の左右対称形に近い。藤井は「二枚金は文鎮みたいで嫌いだ」と言ったことから最近二枚金は文鎮囲いとも呼ばれている。

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(中略)

 夕食前に控え室に来た藤井は、疲れたのだろう、しばらく大の字になって休んでいた。羽生は夕食後控え室に来た。風邪気味との情報があったが元気そうだったので「19歳の羽生さんが無謀な王手飛車をかけて勝った局がありましたよね」と尋ねたら「小田さんがスリッパで帰った局ですね」と笑い顔で切り返された。第2期竜王戦第4局。北海道は羽生にとってもタイトル戦初勝利の思い出の地なのである。その時私はホテルで靴を見失い東京までスリッパで戻って失笑を買った。11年前のことになる。羽生はその会話の後部屋に戻り、すぐに床についたという。やはり疲れていたのだろう。

(中略)

 ▲2六銀~▲3七桂は「力強かった」(高橋九段)。歩越し銀の悪形だが、後手△1一飛からの攻めを▲4五桂の反撃も見せて防いでいる。

 △4四歩は悪形を見て、それなら「ゆっくり指しましょう」という意味だが、地下鉄飛車を断念した結果「△1二香がマイナスの手になった、ここではもうまずい」と羽生は思った。

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(中略)

 四間飛車のスペシャリストの藤井とオールラウンドプレイヤーの羽生。タイプが違うように見える両者だが、島は「二人は王道の将棋を指す点でスタイルが似ている」と見ている。勝敗を決するのは読みの正確さで、「その日に正確性が勝ったほうが勝つ」のだという。本局の藤井は正確だった。

(中略)

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8図以下の指し手
△3四歩▲同歩△同銀▲3五桂△3六桂打▲同銀△同桂▲同金△3五銀▲同銀△3四歩(9図)

 玉頭戦に持ち込んだ羽生だが、これは最後のお願いというより、形作りだった感じだ。先手は駒得の上に▲2六銀も立派に活用できて理想的な運び。

 9図辺りからNHKの夕方の放送が入ったと記憶しているが、形勢ははっきりしていて、解説の島も放送冒頭でそれを告げた。以下藤井は正確慎重に決めた。

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9図以下の指し手
▲2四桂△4二玉▲2五桂△3五歩▲3三桂成△5一玉▲6三金△4六馬▲1八玉(投了図)
まで、117手で藤井竜王の勝ち

 帯広市街から離れているのに、初日朝から多くのファンに来ていただいた。最後は席を増やしても満席で、北海道対局は無事に終わった。藤井のよさが出た一局。途中から傾いたがこれが藤井の勝ちパターンである。二度目の▲3三桂成に△同玉は▲3四銀△同玉▲5二角以下の詰み。投了図からは端が広く先手玉は詰まない。高橋は「藤井竜王らしい終始一貫した堂々たる指し回しでした。羽生五冠はリードされましたが、これで面白くなったとも言えます」と総括した。

 付け加えることはない。翌朝の出発直前、ホテルのロビーで羽生がにこにこしている。「白鳥に餌をあげて来ました」という。11年前のまだあどけなさが残っていた顔が重なって見えた。長い夢の途中にいるような気がしたのは二日酔いのせいだが、同時に今年の祭りは長くなりそうな予感も覚えた。

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羽生善治五冠(当時)の「小田さんがスリッパで帰った局ですね」。

読売新聞の小田尚英さんはかなりな酒飲みなので、酔っぱらって靴を無くしてしまったのかな、とも思ったのだが、「ホテル内で靴を見失い」とあるので、関係者の誰かが間違って小田さんの靴を履いていってしまった可能性も高い。

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藤井猛竜王(当時)の「二枚金は文鎮みたいで嫌いだ」。

「金無双」というと強そうな囲いに聞こえるのだが、「金無双」を「文鎮囲い」と呼び替えると、急に弱そうな囲いに思えてくるから不思議だ。

実際に相振り飛車での金無双は、端攻めには強いが、横からの攻めと玉のコビン攻めには滅茶苦茶弱く、相振り飛車になることが多い私にとっても、なかなか悩ましい囲い。

そういう意味では、金無双よりも文鎮囲いという名前の方が実態には合っているかもしれない。

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白鳥の餌は、雑穀や米など。

川に浮かんでいる白鳥に餌を投げ与えるのかなと思って、対局があった北海道音更町の白鳥の様子を調べてみると、想像とは全く違っていた。

なんと、かなりの数の白鳥が人間の方に寄ってきて、餌を食べてくれる。手から餌をあげて直接食べる白鳥もいるようだ。

人間に慣れた白鳥たちなのだろうが、このような感じなら、羽生五冠のように「白鳥に餌をあげて来ました」とニコニコしたくなるというものだ。

音更町の白鳥の様子→白鳥に囲まれたい方は・・・(きんちゃんの十勝大好き!)

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読売新聞の小田さんは、今年の7月に別の部署に異動となり、30年近く務めた将棋の担当から離れることとなった。このことは、NHK将棋講座でも将棋世界でも書かれている。

小田さんとは今年の2月にあるパーティーで会って、2次会へ一緒に行っている。昔は歌舞伎町で朝まで飲んだものだった。

慰労を込めて一緒に飲みに行きたいと思っているのだが、あれよあれよと時間が過ぎて、まだ果たせていない。

年が明けてからになりそうだが、誘ってみよう。