将棋世界2001年7月号、写真家の岡村啓嗣さんのエッセイ「島研」より。
羽生善治さんのスポーツ好きは、有名だ。
自身でやるのは水泳と軽いジョギング。体力を強化するのとリフレッシュが目的だ。
中学生のころは、東京・八王子の自宅から片道40分の自転車通学をしていた。行きは延々と坂道を登る。かなりハードだ。3年間の自転車通学で相当体力・脚力が鍛えられたに違いない。昨シーズン89局という最多対局記録を達成したが、こうした基礎体力があったからこそではないかと、あの坂道を思い出す。スポーツ観戦は、時間が許す限りしているようだが、サッカー、ラグビー、NBAなど好きなスポーツは多い。スポーツ選手との交流もある。ラグビーの平尾誠二さんと羽生さんが初めて会ったのは、竜王奪取から1年余り経った91年4月頃。当時、羽生さんは20歳で、竜王を谷川浩司さんに取られ持っていたタイトルは棋王一冠のみ。棋士人生の中でも珍しくスランプに陥っていた頃だった。一方、平尾さんは当時27歳で日本代表チームの主将をつとめ、強豪スコットランドに勝つなど「スポーツ界のプリンス」ともてはやされ、またその発言から「革命児」とも呼ばれ、注目を集めていた。
二人はすぐに意気投合、すっかり打ち解けた。最初に行った店は、青山通りに面したスペインレストラン。二軒目は、パブを貸し切り状態にしてカラオケを歌った。羽生さんは「マスカレード」を、平尾さんは「大阪で生まれた女」を熱唱。
二人がどんな話をしていたか、私は今でもはっきり覚えている。
「島研」についてだった。羽生さんが所属していた研究会である。
島朗さんが、羽生さん、佐藤康光さん、森内俊之さんを集め、プロの棋士としては初めての研究会を作ったのだ。今でこそ、棋士が集まり研究会を開くのは当たり前になっているが、当時としては画期的。他の棋士たちからは「プロ同士が一緒に研究といっても、手の内を明かしてしまったら不利になるだけ。成立するわけがない」と冷ややかに見られていた時期でもあった。
平尾さんと羽生さんの話題もそこに集中した。
平尾さんも当時代表チームの主将として迷いがあった。ラグビー界は、代表チームの成績よりも国内で所属するチームの成績をより重視する傾向にあった。自分が持つノウハウを代表チームで全て教えてしまったら、国内の試合で自分が所属するチームは不利になる。口には出さないが、様々なジレンマを感じていた事だろう。
その時の羽生さんの一言が強烈な印象として残っている。
「平尾さん、与えれば与えられるんです」
そう語ったときの羽生さんの真剣な眼は忘れられない。
あれから10年、時は流れた。
羽生さんは、史上初の七冠王を達成。平尾さんも神戸製鋼を率いて日本選手権7連覇を達成させた。
いつしか島研も解散。4人揃ってタイトル戦やA級で活躍するようになって、さすがに役割を終えた。
しかし、羽生さんと平尾さんの二人はその後も定期的に対談の機会を持つなどして、交流を継続させている。
私自身、お二人と親しくさせていただきながら、それぞれの10年余りの歳月を思うと、その生き方、考え方に共通のものを感じ、将棋とスポーツ、真剣勝負の中で語る本質は一緒なのだと実感している。
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「平尾さん、与えれば与えられるんです」
内容は異なるけれども、「情けは人の為ならず」と同じような雰囲気のこと。
それにしても、20歳の若さでこのようなことを話すことができる羽生善治三冠があまりにも凄い。
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パブを貸し切りというのが豪快だ。
1991年の羽生棋王(当時)はまだ広く顔は知られていなかったものの、平尾誠二さんはスター選手であったので、貸し切りにする必要があったのだろう。
羽生棋王が歌った「マスカレード」。
ジョージ・ベンソンやカーペンターズがカバーしたレオン・ラッセルの曲が思い出されるが、庄野真代の「マスカレード」、trfの「マスカレード」、SHOW-YAの「マスカレード」など、曲名は同じでも違う曲がたくさんある。
どの「マスカレード」を歌ったのかを総合的に考えてみると、安全地帯の「マスカレード」である可能性が高いと思われる。
羽生三冠は、少年時代にピアノで安全地帯の曲を練習していたと観測されるのがその主な理由。
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平尾誠二さんは今年の10月に癌で亡くなっている。53歳の若さだった。
ラグビー日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任した平尾さんだが、伝説的なテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の登場人物のモデルにもなっている。
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羽生三冠と平尾誠二さんは、『簡単に、単純に考える』 (PHP文庫)でも対談をしている。