将棋世界2000年10月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。
最近は見かけなくなったが、我々世代は若いうちに和服を着るのが、ちょっとした自己主張というか、流行だった。
佐藤(義)八段、田丸八段、青野九段、飯野七段、鈴木(輝)七段等、皆、三、四段の頃によく着用していた。私も三段の頃から気に入って愛用したものである。
正座でも胡座でも足元がゆったりして楽なのが和服の良いところ。
はき物は下駄が多かった。どういうわけか将棋指しには下駄派が多く、師加藤治郎もそうであったし、原田泰夫九段は現在でも下駄で闊歩しておられる。
私は升田ファンであったから、下駄党のヒゲの先生にならってそうした。
升田に云わせると下駄の鼻緒を親指のつけ根でぐっと締める感じが、肚に力がこもってよろしいとのことである。
下駄にまつわるこんな思い出がある。
ある日、升田が夕方に対局を済ませ、数人と共に会館を後にした。
私もそろそろ帰ろうかと玄関に行くと下駄がない、代わりに上等そうな下駄が置いてある。大先生無頓着だから私の安物の下駄を履いていってしまったのだ。
あわてて事務局の人に行き先を尋ねると、近所の寿司屋へ行ったとのこと。
急いで後を追い、息を切らせて店に入った。先生4、5人で談笑しておじゃる。
うしろからおそるおそる近寄り、横に回って「先生、下駄を間違えておられませんか」と告げると、足元に目をやり「おっ、これは大変こんな安物で帰ったら女房の小言をくうところじゃった」と嬉しそうに笑い、さっさと履きかえて何事もなかったかのごとく、元の話に戻っている。
少しは褒めてもらえるかと考えたのが大甘でこれが升田流なのである。
四段になりたての頃、芹沢先生によく呑みに連れていってもらった。
その日、新宿で呑んでいたのだが、芹沢がこれから中野の寿司屋へ行こうと云いだした。ひょっとするとこの時間なら升田が来ているかもしれないとのことである。芹沢もまた升田ファンであったのだ。その店は両先生の自宅に近く、行きつけの場所で、店主も将棋界とは縁のある御仁、安心して呑める店である。
戸を開けると案の定、十人ほど坐れるカウンターの中ほどに、羽織袴の升田の姿がある。
左隣の客と話しているというより演説している感じだ。
芹沢が挨拶して升田の右側に坐り、その隣に私。
大先生の普段の姿を見ることはないから、こちらは興味津々だ。
話の中身は覚えていないが、噴き出しそうになったのは、升田はビールを呑んでいるのだが、その手元を見ると何と日本酒の猪口で呑んでいるではないか。
そうして構わない人だから、ビールをだらだら膝元にこぼしっ放しなのだ。
見かねた隣の客が、何度も拭いてあげるのだが我関せずといった風情で気にも留めない。
この頃、ちびちびとしか酒をやれない体調だったのだろう。
しばらくして独り語りで「さあ、迎えを呼ぼう」と低くつぶやき、電話をかけに席を立つ。升田の電話は単純明解、簡単明瞭、相手が電話口にでると「あぁ升田幸三」と云ったきり、数秒の間を置き素早く受話器を置いてしまった。
升田の生態を知らない当方、あれで通じるのかいな、と呆気にとられてしまった。しかし案ずることはない。会話は立派に成り立っていた。10分ほどすると奥様が迎えにみえたのである。
長年のつれ合いなればこその以心伝心の一幕であった。それにしても自分の妻に、「升田幸三」の一言だけとは、ナミではない。
もっとも、升田の電話にはこの手のことがよくあるらしい。以下は土佐君の女房(私の妹)から聞いた話。
升田は大変な碁キチで碁さえ打っていれば、機嫌がよかった。
そこで、これも碁好きの土佐君には、時々誘いの電話が掛かったどうな。
妹が電話口にでると「升田じゃが」と云ったきり、妹も心得ていてすぐに土佐君にバトンタッチしたそうだ。
無駄な指し手を嫌った巨匠は、話も極端に切り詰めるのだ。
(以下略)
——–
「おっ、これは大変こんな安物で帰ったら女房の小言をくうところじゃった」と嬉しそうに笑ったら、100人中90人以上は次のセリフは「ご苦労。君も飲んでいくか」と思うだろう。
ところが、升田幸三九段(当時)は、さっさと下駄を履きかえて何事もなかったように元の話に戻る。
結構インパクトのある肩すかしだ。
——–
千駄ヶ谷の話も中野の話も寿司店。
升田幸三実力制第四代名人は寿司が好きだったのかなあ、と考えたところで思い出したのが、築地市場の場内にある「大和寿司」。
この店に「名人の上 升田幸三」という大きな置き駒が飾られている。
50年以上前、「大和寿司」の店主が築地市場将棋部のとりまとめ役をしていて、師範代は土居市太郎名誉名人。土居門下の大内延介少年も稽古でよく通っていたという。
そういう意味では、やはり升田幸三実力制第四代名人は寿司が好きだったという結論になりそうだ。