控え室が騒然となり悲鳴に近い声があちこちで起きた、羽生善治五冠(当時)の妙手

昨日からの続き。

将棋世界2000年12月号、日本経済新聞の松本治人さんの第48期王座戦〔羽生善治王座-藤井猛竜王〕五番勝負第5局観戦記「長き勝負の続き」より。

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3図以下の指し手
△9五歩▲同歩△9六歩▲4六角△9二飛▲4八飛△9七歩成▲5六金△8六歩▲8五桂△8七歩成(4図)

 △9五歩が指された時、藤井は小さく「ウン?」とつぶやき、首を若干前へ突き出したという。今期王座戦の運命を決めた一瞬だった。控え室では「こんな端攻めが間に合うとは思えない」の声が圧倒的。8年ぶりの王座交代を予想する声が最も高まった時でもあった。「自信は全くなかった」と羽生。

 しかし、ここから藤井が崩れていく。

 ▲5六金が、局後に藤井が悔やんだ手である。▲6四歩だったという。△同歩は▲9七香△5五銀▲3七角△6五歩▲5六歩△6六銀▲6五桂△6七銀成▲5三桂成△同金▲4七飛で先手よし。

 従って△6四同角だが、▲同角△同歩▲9七香△8六歩▲同歩△9六歩▲同香△6九角▲7四角で勝負する変化があった。藤井は結局自信が持てず見送ったのだが、羽生も深くは読んでいなかった様子だ。

(中略)

 △8六歩の瞬間も控え室は騒然となった。悲鳴に近い声が、控え室のあちこちで聞かれた。△8七と、と寄れるところを、わざわざ一手余計にかけて、と金を作るのだから、それも当然に見える。

 ところが、これが羽生ならではの妙手。対局者も控え室も予想しない盲点をついた至芸だった。9七と、を残せば△9五飛で、いつでも飛車を自由に活用できる。▲8六同歩と手を戻すのは△同角でいい。

 藤井の態度に今度は変化がなかった。こわい表情のまま、盤面を凝視していたという。「この端攻めで負かされるとは……。△8六歩と突かれてからダメになった」(藤井)。

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4図以下の指し手
▲7三桂成△同桂▲同角成△1五歩▲同歩△1七歩▲同香△2五桂▲2六銀△1七桂成▲同銀△7七と▲2六歩△6七と▲4六馬△4二金上(5図)

 それまで「55対45で藤井か」としていた島八段も「52対48で逆転」と評価を変えた。

(中略)

 ▲4六馬には「一手損しているみたいだ」との評。▲2七銀-▲1八玉を急げばまだ戦えたという。ここで▲5九桂は△8六角▲6七桂△7七角成。△5五香の狙いも残っている。

 △4二金上を見て、藤井にあきらめの様子がうかがえた。と金の攻めが、予想以上に早く、厳しい。

5図以下の指し手
▲8三歩△9五飛▲2五桂△2四銀▲2七銀△8五飛▲9一馬△8九飛成▲3八金△4九銀▲3七馬△5八と▲4七飛△3八銀不成▲同馬△4八金▲同飛△同と▲同馬△7八飛▲3八金△8六角(6図)

▲8三歩を、控え室の棋士たちは一致して最後の敗着と断定した。△9五飛と本譜の順のように指されて、完全な一手パス。まだ▲2七桂といった手の方がよかったようだ。精神的なタフネスさを誇る藤井だが、燃料のガソリンが切れてしまったような展開だった。

 △8六角には「激辛だねえ」といった声があちこちで上がった。△1六歩としても勝てそうな局面だが、角交換で先手の馬を消してしまった方が確実でしかも早い。この手を指して、羽生はトイレに立った。先の△4二金上の時に続く、終盤二度目の離席だった。

6図以下の指し手
▲3七馬△5九角成▲4八香△7九飛成▲4四桂△同歩▲同歩△4九馬▲4三歩成△同金右▲同香成△同金▲7三馬△3八馬▲同銀△3九竜▲3七玉△4九竜右▲4七銀打△同竜▲同玉△4八金(投了図)
まで、126手で羽生王座の勝ち

 ▲4四桂からは形作り。午後10時ちょうど、藤井が駒台に手をやって投了し、羽生は9連覇を達成。

 感想戦は1時間ほどで、仕掛けから△8六歩までを一通り調べて終わった。羽生にホッとした様子はうかがえず、藤井にも残念そうな雰囲気はなかった。局後の打ち上げは、夕方から控え室に詰めていた読売新聞の担当の方に、最後に締めくくりのあいさつをお願いして終了。羽生はすぐ帰宅したが、まだ元気が残っていたのか、藤井は出版社の編集の人達と席を替えて飲んでいたようだ。

(中略)

 以前はほかの戦法も指していた藤井も、最近はほとんど全局を藤井システムで通している。得意戦法を体系的に完成させようと、執念に似た気持ちでいるかのようである。

 羽生にとって、第1局、第3局の敗戦は、今でも心に残っているだろう。防衛後のインタビューで「色々対策を変えてみたけれど、結局決定版はなかった」は本音に近い。戦法の選択の幅は狭められ、これからも苦心を余儀なくされそうだ。

 羽生と違い、藤井は将棋界以外との交際はほとんどないという。その一方、ファン一般からの支持は大変なもので、ネット内などでは羽生すらをも凌ぐのではないかと思わせる。藤井にも、一流の芸術家らしい複雑性が感じられる。知的で冷徹で感情を表にあらわさず、辛らつな批評と機知に富む会話を好み、大胆さと細心さを同時に表現できるこの一種の怪人物が、歴史とともに歩みつつあるスーパースターと世紀末最後の戦いを演じる。

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△8六歩が指される直前の局面がA図。

ここから△8六歩が指されれば、指された瞬間は誰でもビックリしてしまうだろう。

解説を聞けば非常に理解できる手だが、閉山した炭鉱に穴を掘りに行くような雰囲気の一手。

このような、ゆっくりしているように見える手ほど、恐ろしい狙いを秘めている場合が多い。

△8六歩から△8七歩成、そしてこのと金は7七→6七→5八→4八と、アラスカの北極海に近い炭鉱からニューヨークのタイムズスクエアへ移動してくるかのような働きをする。

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△8六歩以下入手した歩は、今度は1筋からの端攻めに活かされる。5三にいる角が9筋の端攻めにも1筋の端攻めにも利いている。

藤井陣から見れば、5三の角は悪の司令塔のような存在だ。

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「色々対策を変えてみたけれど、結局決定版はなかった」は、藤井システムに向けられた言葉。

いかにこの時代、藤井システムが猛威を振るっていたかがわかる。

 

 

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