禁断の煩悩(対局篇)

将棋世界2003年5月号、高橋呉郎さんの「棋士たちの真情 闘志いまだ健在ー田中寅彦九段」より。

 そういえば、こんなことがあった。平成元年の初春、田中は棋聖の座にあり、絶好調だった。中原誠王座(当時)の挑戦を受けた第53期棋聖戦五番勝負は、2勝1敗とリードしていた。棋王戦は挑戦者決定戦に駒を進め、順位戦も二度目のA級復帰を目前にしていた。

 田中はバラ色の青写真を描いた。棋聖位を防衛し、棋王戦は挑戦者になって、谷川浩司棋王(当時)からタイトルを奪う。順位戦も昇級する。こうなれば、将棋大賞をもらえるかもしれない―思ったことを、腹におさめておけない質だから、つい口に出してしまう。終わってみれば、A級復帰を果たしただけだったが、この敗軍の将は陽気に兵を語った。

「棋聖戦の第4局がケチのつきはじめでした。途中で勝てると思ったのがよくなかった。翌日は島(朗八段)君の竜王の就位式だったんです。私は兄弟子ですから、タイトル戦を防衛して駆けつけたら、スピーチを頼まれるんじゃないか。島君はお洒落で有名だけれど、注文をつけてやろうかとか、そんなことを、ちらっと考えたりしたんです。そしたら、いつのまにか将棋がおかしくなっていました」

 お分かりのように、楽天家であるばかりか、サービス精神の持ち主である。時に応じて、三枚目にもなれる。

(以下略)

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ギリシア神話のオルフェウスとエウリュディケの物語。

毒蛇に噛まれ亡くなった最愛の妻・エウリュディケを冥府から取り戻すべく、オルフェウスは冥界の王とその妃に懇願する。

「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件で妻を連れ戻すことを許されたオルフェウスは、目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、後ろを歩く無言の女性が本当にエウリュディケなのかどうか不安になり、後ろを振り向いてしまう。

後ろにいたのは確かにエウリュディケであったが、一瞬のうちにエウリュディケは冥府に連れ戻され、オルフェウスは悲嘆に暮れることとなる。

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オルフェウスの気持ちはとてもよくわかる。

このような状況で、後ろが気にならない人はいないと思う。

しかし、それが良くなかった。

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私が高校入試で試験問題を解いている最中、(2週間後、この県立高校に合格発表を見に来て、合格ならばその足で中学へ行って先生に合格の報告をするのが定跡となっている。その時に、親しかった2年生の女子生徒の何人かが手紙や贈り物をくれるかもしれない)と一瞬考えたりしていた。

そのような光景は1年前に見ていたので、我が身にも、と思ったわけだ。

しかし、合格発表の日、私の受験番号は合格者に含まれてなく、目の前が真っ暗になる。その日はとぼとぼと家に帰った。

翌日、公立高校を落ちた生徒が中学へ行って担任の先生と話をする日。祝日(春分の日)なので、ほとんど校内には人がいない。

第二志望の私立高校の受験はこれから。

後輩の女子生徒が祝ってくれるどころか、その真逆の寂しい校内。

入試の最中に合格後の姿を妄想してはいけないと、強く思った日だった。

もっとも、合格していたとしても、私に手紙やプレゼントを手渡してくれる女子生徒が皆無で、それはそれでショックを受けていたかもしれないが。

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タイトル戦、この1勝で防衛(または奪取)という局面で、防衛後(または奪取後)のことを考えると、あまり良くない結果が待っていると言われている。

この記事での田中寅彦棋聖(当時)のエピソードもその典型例。

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あと1勝で王位を獲得できる菅井竜也七段。若い世代なので煩悩が頭の中をよぎることはあまりないと思われるが、煩悩とは関係なく、あと1勝が大変であることは古来より伝えられていること。

今日の午後、菅井七段にとっての1回目の正念場を迎える。