米を持参しなければならなかった名人戦挑戦者決定戦

将棋世界1985年10月号、名棋士を訪ねて「激動の棋界を生きて 萩原淳九段の巻」より。

萩原 戦後始まった順位戦は日本ハップが金を出してくれなかったら、いずれ出来ても大分遅れていたよ。第1期でわしは塚田(正夫名誉十段)、大野(源一九段)と10勝3敗で同率だった。

 同率決戦は、牛込の河田会館で、最初塚田と一番勝負をやった。その時に、お米3合を持ってきてくれ、他は何もいらんと連絡があった。うちに米3合あることはあるが、子供7人で大変苦労の時だった。天下の名人戦やるのに、米3合持って来いなんて何だ。持っていかなくたってどうにかなると思って行ったら、毎日の記者もハップの社員も誰も来ていない。そして、昼飯も晩飯もご飯が出ない。おかずは出てきたけどな。もちろん米を持ってこなかったわしが悪いけどな。

(以下略)

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日本ハップは薬品会社で、戦後の一時期、名人戦・順位戦のスポンサーとなっていた。

近代将棋を創設した永井英明さんが在籍していたこともある。

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第1期順位戦は1947年に開始された。

この頃は食糧事情が悪く、特に米は配給分だけでは足りなく、ヤミ米がなければ回らない状況だった。

しかし、企業が設営をする対局で、ヤミ米を準備することは、(当時はこのような概念は明確ではなかったが)コンプライアンス上、とてもできることではなかったのだろう。

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調べてみると、1957年頃まで、既に米不足は解消されていた時代だが、中学生の修学旅行では「米持参」ということが慣習として続いていたようだ。

私と農業「中学生、修学旅行にお米を持参」(農業協同組合新聞)

経済白書で「もはや戦後ではない」と記述されたのが1956年。

売春防止法の施行が1957年で、完全施行が1958年。日本全国から遊郭が無くなった。

名実ともに戦後ではなくなったのが1956年~1958年頃と考えて良いのだろう。

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それにしても、ご飯がなくておかずだけ、という食事も結構辛いものがあったことだろう。

このことと関係があったかどうかはわからないが、上記の萩原淳八段-塚田正夫八段戦は塚田八段が勝っている。(この後、塚田八段は名人戦挑戦者となり名人位を奪取している)

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以前、酒席で鰻の蒲焼が出てきたことがあった。私は鰻重は大好きだが、そういえば蒲焼きをつまみに飲んだことは今まで一度もなかったなと思いながら食べると、たしかに蒲焼きの味はする。しかし、単体では、これは私だけの感じ方かもしれないが、酒のつまみには合わないと強く思った。蒲焼き単体では決して美味しくはない、酒には白焼きの方が良いと。

やはり鰻の蒲焼きはご飯と一緒であってこそ光ると痛感したものだった。

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カレーライスやハヤシライスやカツ丼も、ご飯がないとかなり厳しそうだ。

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逆に、ご飯に合いそうで合わない典型例がおでんだと思う。

もともと単体で食べることが前提となっているステーキも、ご飯と一緒に食べて魅力度が上がるとは感じられない。

大学生時代に試したが、やはり単体で食べることが前提となっているケンタッキーフライドチキンもご飯とは合わない。

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農林水産省の統計によると、1947年の米の収穫量が875万トンで、2016年が804万トン。

現在は米が輸入(77万トン)されているとはいえ、米不足だった終戦後の年よりも昨年の方が米の収穫量が少ないことを初めて知る。

昭和に入ってからの戦前は、凶作だった昭和9年の763万トンを除くと809万~1043万トンで推移。

昭和20年は582万トン。凶作と敗戦が重なり、本当に日本が大変だった年だ。

戦後、1946年から1954年までは874万~979万トンの推移。

1955年に一気に1207万トンに増え、1968年の1422万トンがピーク。

恒常的に1000万トンを割り始めるのが1998年から。

あらためて食生活の変化ということを実感させられる。