深浦康市六段(当時)のユニークな自戦記再び

将棋世界2000年9月号、深浦康市六段(当時)の第19回早指し新鋭戦決勝戦〔対 久保利明六段〕自戦記「新鋭戦3度目の優勝」より。

 目覚まし時計。厚い雲に覆われたくもり空。鏡。ちょっと疲れの残っている自分の顔。ごはん。みそ汁。焼魚。卵焼き。グレープフルーツジュース。皇太后さまご逝去。サッカーW杯南北統一チーム。「のぞみ」立ち席OK。佐々岡100勝目。丸山ボギー連発。福原愛、ダブルス1勝。


 今年はあわただしい春を過ごした。本来、好きな桜の季節でもあるのでのんびりしよう、というコンセプトは決まっているのだが、せっかくのオフシーズンだから旅行でも、名人戦をやっているから勉強という口実で見に行こうか、という欲が出て、結局いっぱいいっぱいの日程になってしまっている。

 ピークはこの早指し新鋭戦を挟む1週間。東京で対局した翌日に、長崎での名人戦第6局のNHK解説役(移動日含め4日間)。帰京翌日、芝公園スタジオでこの決勝戦。翌日、青森でのイベントのため、早朝空路八戸へ。というスケジュール。

 でも羽生、谷川に比べたら全然たいした忙しさじゃないですけどね。

 スケジュール管理は全て自分でやっているが、このように忙しくとも充実していられたのには要因があった。それは2年後に日本で行われるW杯。その6月からはW杯休暇(ブラジルやイタリアでは皆仕事を休んで自国を応援する)を取り、1ヵ月はサッカー狂者となって過ごす事。このためには今からポイントを挙げておかねばならない。

 手帳を見ながら日程の調整に勤しんでいると、突然妻が「もし優勝できたらその賞金は好きに使っていいよ」との信じられない言葉が。

 以前(結婚式の時)、米長先生に「同居人(妻)は神にも猿にも変わる」との言葉を頂いたのだが、遂に神に変わる時を見てしまった。

 もちろん賞金はW杯資金に。運は自分にほほえみつつある。


 ノートパソコン。盤と駒。スーツ。折りたたみ傘。AIKO。カブトムシ。東武東上線。ヤマンバ。電車の床に平気で座る女子高生。着メロ。東京タワー。久保家、塚田家、深浦家のファミリー3家族。島田さん。二上会長。島八段。中井女流名人……。


(中略)

 早指し新鋭戦は7年前と昨年に優勝している。2回の優勝は過去、何人かが記録しているのだが3回目はまだとの事。今回はそのチャンスが巡って来た。

 しかし…と考えてみると、3回目のチャンスがあるという事は、それだけ新鋭戦の資格(30歳、B2以下)に適していて、ほとんどの人はB1に昇がっているからじゃないか。

 再びしかし…。前期B1に昇がっていればここに居なかったわけだし、決勝戦を戦える事は幸せだ。そして何よりも目の前には久保利明が座っている。

 久保六段の名前を印象強くしたのは平成6年の出来事。自分はシーズンを終え8割ジャストという成績を残した。歴代でも9位タイという記録である。さすがに年間勝率賞は間違いないだろうと思っていたら、大阪に居た久保六段は8割1分、というものだった。強い若手が居るな、と感じていたら東京へ引っ越して来るとの事。もちろんすぐにVS(1対1の研究会)をお願いした。

 久保六段の先手となり、四間飛車藤井システム。対して居飛車側は、玉形をまとまった形にして反発する形を採った。現在では先手番ならともかく、後手番では居飛穴に組める事はまずなくなった。

(中略)

 TV東京の早指し戦と早指し新鋭戦が、継続のピンチに立たされている。直接的な要因としては視聴率の問題である。もちろん朝5時15分の放映なので起きて見るのは大変かもしれない。しかし前日にビデオをセットして頂く事で解消できる問題なので、ぜひともお願いします。

 新鋭戦に限って言えば、やはり若手の登竜門のイメージがある。四段になりたての棋士をずっとマークしていて、タイトル戦に登場、という事になったら面白いと思う。来期のこの棋戦には間違いなく渡辺明四段はエントリーされる。今期の本戦、屋敷-渡辺戦も注目の一戦であろう。

 現在は将棋連盟がスポンサーになっている関係で、羽生四冠がCMに出たりもしている。他にも夏には、女流棋士がゆかたで出演している”お好み対局”も楽しい。見て損はしない。本当によろしくお願いします。

(中略)

 △5五香から△8六香と小駒が活躍し始めた。この辺りでようやく優勢を意識する事が出来た。しかしまだ玉形は弱いので飛車を大事にして、先手玉の左側から攻める事を心掛けた。

 勝負は常に断崖絶壁を背にして立っている様なもので、正面数百メートル先にはゴールのテープが張られている。目に映るのは勝利のゴールだけだが、その瞬間に崖の上に立たされているのを忘れてしまっている。随分ゴールには近づいたが、いつ突風が吹くか分からない。

 残り数十メートル。這い蹲って進む事にした。

(中略)


 感想戦。「▲6四歩突き捨ては入れた方が良かった」と話す久保六段。表彰式。記念撮影。打ち上げ。海斗君が恵梨花ちゃんと楽しそうに追いかけ回すのを口をあけてながめる凜人。凜人をあやすまゆちゃん。2次会。飲めない後輩の大橋さんをいたわる高橋プロデューサー。なぜか服を脱ごうとする、通称”江戸前君”神谷君。


(中略)

 これで新鋭戦は3度目の優勝になった。7年前のダブル優勝と加え、誇りに思う。

 本当に縁を感じる棋戦で、スタッフにも恵まれ、又将棋会館とは違う雰囲気が新鮮な気持ちにしてくれている。しかしこれからが大切なので、過去の事は大事に胸にしまって新たに頑張って行きたい。

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2000年6月17日(土)、この日の深浦康市六段(当時)の、起きてから眼に映ったもの(緑色の部分)も書いているユニークな自戦記。

当時の時代背景などもあるので、理解を深めるために注釈を付けてみた。

深浦六段は、この前年も早指し新鋭戦で優勝しており、同じ様式で自戦記を書いている。

深浦康市六段(当時)「困った顔をして欲しい北浜君」

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  • 厚い雲に覆われたくもり空…気象データによると、この日の天気は午前中が曇り、午後になってから雨が降っている。最高気温20度、最低気温17.5度。
  • ごはん。みそ汁。焼魚。卵焼き。グレープフルーツジュース…この日の深浦家の朝食。前年の早指し新鋭戦決勝戦のあった日の朝食はロールパンとグレープフルーツジュースなので、深浦六段の朝はグレープフルーツジュースが定番だったと思われる。
  • 皇太后さまご逝去…この前日、香淳皇后が崩御。97歳だった。
  • サッカーW杯南北統一チーム…この4日前の6月13日、朝鮮半島の分断後55年で初の韓国と北朝鮮の両首脳による首脳会談が行われている。
  • 「のぞみ」立ち席OK…1992年から運行されている「のぞみ」だが、2000年7月1日から立ち席がOKになった。ただし、まだ基本的には全席指定席で、自由席が設けられるのは2003年10月1日から。
  • 佐々岡100勝目…広島東洋カープの佐々岡真司投手が、前日の対横浜ベイスターズ戦で完封勝利。 史上115人目の100勝達成となった。
  • 丸山ボギー連発…ゴルフの丸山茂樹プロ。やはり丸ちゃんと呼ばれている。2000年からアメリカのPGAツアーに本格参戦している。
  • 福原愛、ダブルス1勝…福原愛選手が11歳7ヵ月で最年少日本代表入りした頃。
  • ノートパソコン。盤と駒…棋譜並べ。この頃はラップトップパソコンという呼び名が死語になりつつあったことがわかる。
  • 折りたたみ傘…家を出る頃は曇り。きちんと折りたたみ傘を持っていくところが緻密な深浦九段らしいところ。この日の午後3時頃から雨が降っている。
  • AIKO…aikoは女性シンガーソングライター。血液型はAB型。歌手としての表記は「aiko」で作詞・作曲のの時は「AIKO」と表記しているという。
  • カブトムシ…駅に向かう途中でカブトムシを見つけたのかなと思ったが、よく調べてみると、これはaikoのシングル曲。深浦六段は、家を出るまでにこの曲を聴いたということになる。
  • 東武東上線…深浦六段の家の最寄駅から東上線に乗る。
  • ヤマンバ。電車の床に平気で座る女子高生。着メロ…東上線の中の光景。ガングロの女子高生の全盛期だ。あの時代は何だったのだろう。
  • 東京タワー…この頃のテレビ東京のスタジオは東京タワーの麓にもあった。

(ここからはテレビ東京)

  • 久保家、塚田家、深浦家のファミリー3家族…スタジオには3家族が来ていた。
  • 島田さん。二上会長。島八段。中井女流名人…司会の島田良夫アナウンサー、二上達也日本将棋連盟会長(当時)、解説の島朗八段(当時)、聞き手の中井広恵女流名人(当時)。
  • 海斗君が恵梨花ちゃんと楽しそうに追いかけ回すのを口をあけてながめる凜人…久保家の海斗君、塚田家の恵梨花ちゃん、深浦家の凜人君。塚田家の恵梨花ちゃんは現在の塚田恵梨花女流1級。
  • 凜人をあやすまゆちゃん…前年の自戦記でも登場している、まゆちゃん。番組を制作している輝企画のスタッフ。深浦六段はちっちゃいまゆちゃんと呼んでいたようだ。
  • 飲めない後輩の大橋さんをいたわる高橋プロデューサー。なぜか服を脱ごうとする、通称”江戸前君”神谷君…飲みながら服を脱ごうとする人とはまだ出会ったことがないが、飲んで服を脱ぐ場合は、やはり野球拳をやって脱ぐのが王道なのではないか思う。