「私にとって幸いだったのは、今回挑戦する相手が、中田功プロである事だった。どういう事かというと…」

近代将棋1987年10月号、田尻隆司アマのアマプロ勝ち抜き戦〔対 中田功四段〕自戦記「プロ変調の一局」より。

中田功四段(当時)。近代将棋同じ号に掲載の写真。

 本誌のアマプロ勝ち抜き戦は、企画自体大変面白く、また将棋の内容も参考になる好局が多いので、始まった当初よりずっと注目していた。そして恐らく、遅かれ早かれ、私にも出場の機会が巡ってくると思っていたのだが、いざそれが現実になってみると、プロに対する恐怖心やら、常日頃の不勉強による盤上知識の無さに対する不安やらで、数日眠れぬ夜を過ごしてしまった。

 一体私の様な地方出身のアマチュアは、プロに対して一種独特な畏敬の念を抱いており、まず面と向かった瞬間に、頭に血が上ってしまうのである。それは田舎のテレビ好きの中学生が、アイドル歌手を目の前にした時とまったく同じである。

 私にとって幸いだったのは、今回挑戦する相手が、中田功プロである事だった。どういう事かというと、前述の様に田舎者である私が、プロ棋士の中にいるたった二人だけの昔からの知り合いのうちの一人。それが中田プロなのだ。時は昭和55年、熊本の高校を卒業した私は福岡は博多で1年間自由な生活を謳歌していた(世ではこれを浪人時代と言う)。将棋三昧の毎日の中で、道場でたまに顔を合わせていたのが、当時中学生の中田少年であったというわけである。また、道場の顔役であった彼の父君にも随分とお世話になり、後に私が広島の某大学生となり、中田少年が奨励会の有段にまで進んだ頃、私が友人と博多に遊びに行った折に、友人共々御宅に泊めていただいた事もある。

 そのようなわけで、今回は、彼が出世してプロの四段になっているにもかかわらず、私としては不埒にも、旧交の友人と再開した様な気分で、極度の緊張からは逃れる事ができたのである。

(ちなみに、もう一人のプロの知り合いとは、広島で散々痛めつけられた、にっくき”肉丸君”である)

(以下略)

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「それは田舎のテレビ好きの中学生が、アイドル歌手を目の前にした時とまったく同じである」

たしかに、アマプロ戦は指導対局などとは事情が全く異なる。

”アイドル歌手を目の前にした時とまったく同じである”という気持ちがわかるような感じがする。

昔、目の前ではないが、池尻大橋の酒場で3メートルほどの距離に全盛期の頃の後藤久美子さんを見つけた時は、冷静を装ってはいたものの、かなり心が動揺したという記憶がある。

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「今回は、彼が出世してプロの四段になっているにもかかわらず、私としては不埒にも、旧交の友人と再開した様な気分で、極度の緊張からは逃れる事ができたのである」

そのようなわけで、この対局は田尻隆司アマが勝っている。

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「ちなみに、もう一人のプロの知り合いとは、広島で散々痛めつけられた、にっくき”肉丸君”である」

これは。もちろん村山聖九段の少年時代のこと。

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中田功八段の福岡の実家は鰻屋だった。

中田功八段の自戦記、エッセイにお父さんや弟さんのことが出てくる。

最高に素晴らしい自戦記とエッセイ。

中田功七段らしさ

中田功五段(当時)「親には何も言うなよ」