「皆の頭に浮かぶ人物、口には出さねど”あの男”。そう、他に誰がいるというのか」……神と呼ばれた伝説の匿名ネット棋士

将棋世界2004年8月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 順位戦の季節が巡ってきた。

 6月15日、C級1組1回戦。

 私の相手は中田功六段である。

 中田の将棋は軽快かつ、終盤を視野にいれた中盤の捌きに独特のものがあり、彼の三間飛車はコーヤン流の愛称で、仲間内からも一目おかれている。

 私の後手番であるから尚更、中田の三間飛車を支え切るのは大変と考え、戦型は相振り飛車となった。

 だが、やはり秀逸な構想を打ち出されて戦況は芳しくない。

 だからという訳でもないが、気分転換とからだを休めるつもりで、記者室に行ってみた。

 珍しく阿部隆七段がいる。彼は関西なので会う機会は少ないのだが、その日は銀河戦の収録があり東京に来たとのことであった。

 そこに勝又清和五段や上野裕和四段も加わって、ひとしきりインターネット(以下ネットと表す)将棋の話題となった。

 そこに神と呼ばれる人物が存在するらしい。

 私も時々ネット将棋は観戦しているから関心があり、聞いていると、どうやら途轍もない使い手がいるようだ。

 あまりの強さに観戦者達はその者を”神”と呼ぶ。

 ネット上では皆、ハンドルネームを用いるから正体は不明だし、詮索するのもマナーに反する。

 その人物をD氏とする。

 筋の良さでは定評のある阿部七段が、Dは他の者とは筋が違うと評価している。

 軽々しくホメることをしない男がそう云うのだから信用できる。

 勝又五段も、あの将棋は並ではないと称え、こんな将棋があったとDの対局の一場面を符号で示した。

 その将棋の終盤は私も見ていて驚いた。

 A図がその局面、30秒将棋であり相手のM氏もかなりの強豪だ。

 局面はMが△5五馬と桂を取った場面。

 後手からは△8六香が猛烈に速く、先手の手駒は不器用だから、ここでは苦戦と思われた。

 ところがここでDは思いもよらぬ手を繰り出して後手を混乱に陥れたのだ。

 皆さんも30秒考えてみてはいかが。

 

 彼が指したのはまず▲7三香。Mも咄嗟には意味を計りかねたろう、当然のごとく△同金(△同銀は▲8一飛で寄り)そこで▲5二飛が飛んできた。

 青天の霹靂とはこのことを云うのだろう、馬取りと▲6一竜の寄せを同時には受けられないのである。

 やむなく△6二桂と受け▲5五飛成と馬を外せてはまだ難しいながら流れはDのものとなった。

「時間があればともかく、あの手を30秒で指せるとは…」

 と勝又は感心し、私も全く同感であった。

 Dは矢倉、横歩取り、振り飛車、その他、何でもござれの使い手なのだ。

 世界広しといえども将棋は日本固有のゲームであるから、これだけの将棋が指せる人間となると、おのずから限られてくる。

 まさかNASAあたりのスーパーコンピュータということはあり得まい。

 女流棋士でもないだろう。

 詮索は無用なれど、皆の頭に浮かぶ人物、口には出さねど”あの男”そう、他に誰がいるというのか、万が一将棋連盟所属の棋士以外でこれほどの使い手がいるとするならば、こんな逸材を野に放っておく手はない。

 将棋連盟は三顧の礼をもってしても、この人物を招くべきである。

 ”あの男”以外にこんな強者が存在していて、表舞台に登場してくれれば、棋界はもっと賑やかになるのだが。

 Dさん、私の妄言に気を悪くされたなら深くお詫び致します。

 それほどあなたは強いのだ。

(以下略)

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A図からの▲7三香~▲5二飛が、あまりにも見事。

1手30秒の秒読みが続く実戦の真っ只中で、このような次の一手みたいな絶妙手が繰り出されるのだから凄い。

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真部一男八段(当時)がD氏としている「神」の、将棋倶楽部24でのハンドル名はdcsyhi。

キーボードではd、c、sが隣接していて、  y、h、iもほとんど隣接に近い配列なので、適当に決めたハンドル名であることは間違いない。

そして、「皆の頭に浮かぶ人物、口には出さねど”あの男”そう、他に誰がいるというのか」と書かれているように、dcsyhi氏は羽生善治竜王ではないかと見られていた。

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実際に、当時、dcsyhi氏が将棋倶楽部24で指していた日時の記録を、主要な棋士の対局日程やイベント出演日程と突き合わせた人がいた。

その結果、羽生竜王だけがdcsyhi氏であることが可能なことが判明したという。(他の棋士はdcsyhi氏の対局中に、対局をしていたかイベントに出演していた)

伝説のネット棋士の正体に迫る!(ガジェット通信)

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上記記事では、100%断定はできないものの、99%以上、dcsyhi氏は羽生竜王なのではないかと述べている。

更に調べてみると、羽生竜王は昨年の8月に行われた北海道政経懇話会(北海道新聞社主催)で「決断力を磨く」という講演を行っているが、そこで次のような話があったという。

実は私も、ネットでそういう人たちとかなり練習しました。ネットではお互い、本名は名乗りませんが、相手がプロか素人か、ちょっとやれば分かります。ひどい時は、相手が誰かまで分かります。以前、あるタイトル戦の前日にウォーミングアップとしてネットで対局したら、相手が次の日の対局相手だった、ということがありました。これはまずいなと思って、それ以来、ネット対局はしないようにしているのですが。

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dcsyhi氏が羽生竜王である可能性は更に高まったと言えるだろう。

ところで、dcsyhi氏の将棋倶楽部24での最終対局日は2004年6月5日(土)であったという。

この頃は名人戦〔羽生善治名人-森内俊之竜王〕の最中で、6月3日・4日が第5局(羽生名人の勝ち)、6月10日・11日が第6局(森内竜王の勝ち、名人位奪取)という日程だった。

羽生竜王が昨年の講演で記憶違いがあったとすると、「あるタイトル戦の前日に」は「あるタイトル戦の翌日に」だったことになる。

そして、その場合、相手は森内俊之竜王。

たしかに、森内竜王が相手だったら、「ひどい時は、相手が誰かまで分かります」の”ひどい時”に十分過ぎるほど該当すると思う。

さらに、名人戦で2勝3敗となった翌日で、1週間以内には第6局があるというタイミング。ネットで対戦するのは非常に味の悪い状況だ。

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ただし、「あるタイトル戦の前日に」が羽生竜王の記憶違いではなかったとすると、dcsyhi氏は羽生竜王ではなかったことになる。

この辺は、ずっと謎を残したままになるのだろう。