林葉直子女流二冠への米長邦雄王将からの手紙

将棋マガジン1984年1月号、林葉直子女流二冠(当時)の「ただ今修行中」より。

 この原稿は、東京の郊外のある古い家の四畳半の一室を借りて書いています。

 私、あのやさしい米長先生をすっかり怒らせてしまい、また東京に帰り一から出直すことになりました。原因は二つあります。一つは、私の成績が悪いこと。もう一つは、私の生活態度にけじめがないこと。煎じ詰めれば成績が悪いのは生活態度がなってないから、ということで、最大の原因は「生活態度の悪さ」ということになるかもしれません。

 米長先生のお許しをいただいていますので、先生のお手紙から一部引用させていただきながら、自己反省をし、この誌上を借りて、先生にお詫びしたいと思います。

 先生を立腹させることになったきっかけは私のCMで歌っている歌のレコード化問題でした。レコードは出させないという父の主張を通すに際し、幾人もの人にご迷惑をおかけしました。とくに、私の「ひとりぼっちの対局」を出版して下さったノラブックスの社長・尾上洋一さんには、一方ならぬお世話をかけたのでした。このことにつき、何かの講演で福岡にお出になった米長先生は、父と私を呼び出して、この社長には必ず挨拶に行くようにと、くどいくらいにお諭しになったのです。父と私は、必ず挨拶に行くことを約束して、先生と別れたのでした。

 けれども、それから1ヵ月。父は仕事の忙しさにかまけて上京しませんでした。私は上京した際、一度挨拶に伺ったのですが、お留守だったので、それっきりになってしまいました。「早く東京に行って尾上社長に挨拶しとかにゃいかんのう」と、父は私の顔を見るたび口に出していたのですが、警察の仕事って、とくに父は警察犬を扱っていて代わりの者がいないので、なかなかまとめて休みを取るのが難しいみたいで、とうとう一日延ばしで、ひと月も経ってしまっていたのです。こんないい方おかしいみたいですが、やはり私たち田舎者なんですね。先生からお叱りのお手紙が来てはじめて「ああ、もうひと月も経ったのか」なんて始末なんです。

「人に感謝する気持ちのない者は破門したいと考えておった」

 先生のお手紙の初めの方に出てくる言葉です。父に見せますと、すっかり恐縮してあわてていました。だって、人への感謝を忘れたらいけない、といつも私たち子供にお説教しているのは、父なんですから。

「これから君が進む道は三つかと思う。ひとつは、将棋界から完全に足を洗ってしまうことだ。もうひとつは、今のように芸能界に興味を示しつつ、今までのように将棋をいいかげんに勉強していこうとする生き方だ。右の二つは師匠と縁切りになるだろう」

 先生をすっかり怒らせてしまったことに、私はもちろん父もすっかり震え上がってしまいました。「いやあ、お父さんが悪かった。まったく弁解の余地はない。もう先生の会わす顔がない。お母さん、お前、先生のところへ至急行ってお詫びを言って来てくれ。そして俺はもう直子のことには一切、口も顔も出さずに、謹慎いたしますと伝えておいてくれ」とそれはもう気弱なこと。

「さて残るひとつだが、次のような生き方ができるだろうか。

一.テレビ出演、マスコミの取材は、自分または師匠を通じて全て断る。いわゆる休業宣言である。女流の対局以外は奨励会の5級として修行に打ち込む。
一.将棋に打ち込んでいさえすれば、君のようにファッションやマスコミの動向に気をとられなくなり、道が開けるだろう。修行中の身でありながら、いかに両親が甘いからと言って、服装や身だしなみが、師匠の娘達よりはるかに良いものであったりしてはいけない。
一.将棋の修行は全て自分自身の熱意である。この世界で生きようとする者で、君のように怠けていた内弟子を私は他に知らない」

 先生のお手紙は、次から次へと私の胸を突き刺します。でも、先生のおっしゃることに、反論の余地はまったくありません。実際そのとおりなんですから。そんな私を、先生は必死に立ち直らせようとして下さっているのです。先生のお手紙は、最初の辛辣な調子から、やっぱり先生なんだなあ、と胸が熱くなるような先生らしい調子に変わってきます。

「私が考えている最善の策は、明日からの生き方を自分で決めることにある。両親の意見、姉さんや学校の先生方の意見、師匠の意見等をよく聞いたうえで、誰の力も借りず、誰の指図も受けず、自分で行き方を決めなさい!

 私のアドバイスは、直ちに上京する事である」

 なにやかにやとおっしゃっても、やはり私の先生。ちょうど、父から叱られたあとのほのぼのとした感じが、私の胸に湧いてきます。そして、そのあとの文章に、不謹慎なんですが、師匠と弟子の間のあたたかい血の通いみたいなものを感じて、ついうれしくなってしまいました。

「但し、私の家、あるいは近くはよくない。なぜなら、私は、自分の周囲にダラダラとしている人間がいると気になって、足を引っ張られるからだ。

 一生懸命勉強して、またきれいな目を見せて欲しいのだ」

 このあと、先生は私の住む所をどこにするかなど細々と指示をなさって下さいます。そして、さらに心配して下さるのです。

「私が最も心配していること。それは、他人に感謝することなく、将棋をいい加減にしている者には不幸が見舞うのではないかという恐れだ」

 今度のことも、結局この感謝ということが引金になったのでした。父も、私たち子供に他人様に対する感謝の気持ちを忘れてはならないよ、と常々言います。先生とまったく同じことを言いながら、どうして先生にこのようなご心配をかけることになったのでしょう。先生からお叱りの手紙をいただいて初めて気がついたのですが、父の感謝は心でするだけで、相手に感謝していることを知らせる作業をあまりしないか、しても鈍いのです。先生のおっしゃる感謝は、感謝の気持ちが湧いたら、それを機敏に形に表すこと、表してはじめて感謝したということになるのだということだったのです。ここに大きな違いがあったのです。

 先生、私は生まれ変わります。先生への感謝の気持ちは、私が今までとは別人のように将棋に打ち込み、成績を上げるという形によって表すしかないと思います。今までのだらしない直子は九州に捨ててきました。今度こそ先生に誉めていただけるよう一生懸命頑張ります。先生をはじめ私を温かく見守って下さる方々への感謝の気持ち、決して忘れません!

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林葉直子女流二冠(女流名人・女流王将)はこの時15歳。福岡の実家から高校に通っていた頃。

女流棋士であるとともに奨励会員だった。(手紙には5級とあるが、この頃は降級して6級)

米長邦雄王将(当時)は、女流棋士としての林葉直子女流二冠に対してではなく、プロ棋士を目指して頑張ってほしいという気持ちで、奨励会員としての林葉直子5級に対して、このような手紙を出したのだろう。

泥沼流とさわやか流の混在の、これぞ米長流という手紙の内容。

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とはいえ、ここまでの細かい経緯はわからないが、この時の米長邦雄王将(当時)の感覚が様々な面で私には理解できないので、感想についてはノーコメント。

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林葉さんは、この後も奨励会で連敗が続くなど、奨励会での成績は好転せず、この半年後に奨励会を退会することになる。

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1984年、三菱電機のパソコンMULTI8の広告より。