「おまえの腐った根性を、洗い流してやる!」

将棋マガジン1984年3月号、林葉直子女流二冠の「ただ今修行中」より。

「おまえの腐った根性を、洗い流してやる!」と、父から、お風呂場で水を何杯も頭からかけられたのは、小学校5年生の時でした。

 これは、私の第1回目の大ウソが原因でした。このウソがあって、その時の父の叱責があって、今の私があるのです。

 私が将棋を本当に好きになり始めたのは、小学校4年生の時からだと思います。大会らしい大会にはでたことがなかったのですが、小学校4年生の時、アマ女流名人戦に初めて出場し、いきなり3位になったことが、私にやる気を起こさせたようです。

 それで、もう父からいわれなくても、自分で、将棋盤に向かうようになったのですが、初めて出場して、すぐに3位ということは、私にどこか将棋を甘くみる気持ちを起こさせたようです。父もそうです。父も私の3位にすっかり私を過大評価し、私のやるにまかせていました。4年生で3位なら、5年生では、2位か優勝だ。なんて単純計算をしていたらしいのです。

 しかし、世の中そんなに甘くはありません。5年生の時は、ベスト8に入るのがやっとのありさま。

 父も私も大いに悔やみ、そして反省しました。そして、6年生にはきっと優勝してみせるゾと、二人で誓ったのでした。それに、これと前後して米長先生から、奨励会受験のお勧めもあったので、いやがうえでも私のファイトは燃え上がったのです。

 二人は綿密な計画をたてました。必ずやらねばならないことが、5項目立てられました。その中の一つに、学校からの帰りに、必ず町道場に寄って2、3局指してくること、というのがありました。最初の1、2ヵ月は、私も真面目に通いました。でも相手はすべておじさんやお兄さんばかりだし、整髪料やタバコの匂いの充満するところなんて、およそ女の子向きではないでしょ。父には悪いんですが、道場に行くのが、だんだんイヤになってきました。それで、かねてから私に遊びにくるように言ってくれている友達の家に、こっそり行くことにしました。

 ウソをつくのって、勇気がいるんです!とっても。友達の家に行きながら、オトナの人とすれちがったりすると「あっ!あの人、お父さんの知り合いじゃないかしら」なんて…。ドロボーや何かの犯人で逃げまわっている人大変でしょうネ。周りの人がみんなおまわりさんに見えて……。

 友達の家では、小学校5年生の子になって思い切りあそびました。が、さて、帰るときになって、何だかとても、たいへん悪いことをしたみたいな気がして、家へ帰る足の重いこと――。

「ただいま」「おかえり。今日はどうだった」「ウン、2勝1敗だった」「そうか。よくやったな」「ウン」

「ヤッタ――ばれなかった」私は、自分の机の前に行って、ホッと胸をなでおろしました。

 悪いことは一度すると、罪悪感が薄れていくもの。私は、父にばれなかったことをさいわいに、その日からピタリと道場に行かなくなりました。父公認の道草ができるのです。

 友達の家で陽がとっぷり暮れるまであそんで澄ました顔で自宅へ帰ります。そして、「2勝1敗」なんて適当に言うのです。私のウソつきぶりも板につきました。父も母もまったく私を信じていたようです。

 でも、悪いことは、長続きしません。

 それから1週間後、いつものようにランラララと鼻歌まじりに帰りました。すると、いつものように父が「おう。今日はどうだった」と、いうのです。声がいつもの調子だったので、父の眼が笑ってないことに気づく由もありません。「うん、2勝2敗だった」「ホウ、それは。で、どこの道場に行ってきた」「天神町の……」と、答えてオヤ?と、思いました。そっと父の顔をみると、その眼はもう、焔の燃えるような、恐い目になっていたのです。

 道場の席主さんから家に「直子ちゃんがここ1週間ばかりまったくお見えになりませんが、ご病気でもなさったんじゃないかと思いまして――」と、電話があったらしいのです。それで私、とうとう水責めの刑にあったのです。

 そんなことがあって私もおおいに心をいれかえて、がんばりました。そして6年生でアマ女流名人戦の優勝と奨励会合格の両手に花を手に入れることができたのです。

 あれからもう5年。私はまたまた大ウソをついて父を激怒させたのでした。私の奨励会の成績は、将棋マガジンの末尾を見れば一目でわかります。惨たんたるものです。

 ところが、私のこの成績を父はまったく知らないのです。いえ、知らないのではなくて、私から口頭で知らされた成績を鵜呑みにして将棋世界や将棋マガジンの成績表なんぞ、見ようともしないのです。

 そして、悪いことに私をとても、かわいがってくれ、私の成績を心配してくれる近藤先生(福岡で私が尊敬する先生)をも、私や父から口頭で私の成績を聞くだけですので、父と同じ私の被害者にしてしまいました。

 2回目の大ウソのはじまりは、私が東京から福岡の実家に帰ったときからでした。

 私の成績は下降線をたどっていました。父や近藤先生はそんな私を激励してくれました。でも、私は相変わらず、1勝2敗のペース。そんなときとうとう3連敗。飛行機で帰りながら、迎えに来てくれている父のことを思いやりました。”どうしよう。どうしよう”と3連敗という事実は変えようもないのに、そんなことばかり考えていたのでした。そして父の顔を見たとたん「あのネ、1勝2敗だった」と、いってしまったのです。その時の心根は今度の奨励会のとき3連勝すれば、このウソはばれない、というものだったんです。ちょうど、サラ金地獄におちいっていく人と同じみたいです。次の奨励会でも、私の成績は目を覆うばかりでした。その結果ウソが嘘を呼び、私の成績は実際のものとは、かなり離れてしまい、とうとう、6級まで落ちてしまいました。

 そんな時、近藤先生から父へ電話がありました。「今夜おれは、飲み屋でケンカしてやった。直子が奨励会の成績がわるくて、6級におちたといいやがるんだ。だから、俺は言ってやった。俺は直子と直接会って成績を聞いている。落ちるはずがない」

 これがきっかけでとうとう私の見事な成績は、父や近藤先生に知られてしまいました。

 ごめんなさい。お父さん、近藤先生、私を一番信頼してくれた二人をうらぎってしまいました。でも、先生や父には、弱い私をみせたくなかったのです。

 でも虚像はあくまで虚像。

 これからは、心をいれかえて、虚像を超える実像になるように努力します。どうか、二度目の大ウソお許しください。

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「嘘も突き通せば真実になる」

「嘘も方便」

「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」

「大きい嘘はついても、小さい嘘はつくな」

「女の嘘は許してあげなよ」

「嘘」に関しては様々な言葉がある。

しかし、林葉直子6級(当時)のついた嘘は、どれにも当てはまらない。

女性が自分一人しかいない奨励会、いろいろな辛い思いをしながら、なおかつ成績は上がらない、そのような状況下で、自分を応援してくれている人に心配をかけまいと思ってついた嘘。

林葉直子さんが非常に明るいキャラクターになるのはもっと後、A型だと思っていた血液型が実はB型と判明したあたりからになるのだが、この頃は15歳。

当時の林葉直子女流二冠の姿を、中井広恵女流二冠(当時)が書いている。

非常に心を打つ文章。

中井広恵女流名人・女流王位(当時)「彼女との日々」