将棋世界2004年2月号、増田裕司五段(当時)の「関西将棋レポート」より。
第29回『関西将棋の日』が、11月16日に関西将棋会館で開催された。このイベントは、普段からお世話になっている将棋ファンの方への感謝の気持ちを込めたもので、関西棋士が52名参加。
(中略)
午後3時30分「東西クニオおおいに語る」
米長永世棋聖と内藤九段の対談で、絶妙のトークショーとなった。(一部紹介)
内藤「『生』という字は、100通り以上読めるらしいねぇ。しかし『死』という字は1つしか読めない」(意味深な話)
米長「100あるの!!30くらいと思っていた」
他に、内藤九段が、歌手の故・三橋美智也さんを偲ぶ会の会長になった話や、
米長「将棋は日本の伝統文化になって国から予算が出る。教育上いいという事で、将棋を国技にする事が私の役目」
内藤「お母さんに将棋の先生は素敵だねと思ってもらわないと。色気と笑いが大事でね」
(以下略)
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「『生』という字は、100通り以上読めるらしいねぇ。しかし『死』という字は1つしか読めない」は、たしかに奥深い。
生き方は何通りもあるけれども、死という現象は一通りしかない、ということか。
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「東西クニオ」ということで、内藤國雄九段と米長邦雄永世棋聖の対談は何回か行われており、2004年には二人の対談録「勝負師 (朝日選書)」が出版されている。
もともと気が合っていた二人だが、最後はそうでもなくなっている。
将棋世界2013年3月号、米長邦雄永世棋聖追悼号、内藤國雄九段の追悼文「中身の濃い人生でしたね」より。
後に理事になる同門の淡路君と飲んでいるとき、話の途中で「米長先生とぜんぜん考え方が違います。本当に二人は仲がいいんですかぁ?」と野太い声で聞かれた。「意見は合わないが気は合うということやな、ふん」。連盟の行く末、女流棋士への考え方など米さんと真逆であったが、会うといつも楽しくなり別れるときは固い握手をした。それは米さんの天性ともいうべき明るいユーモアのせいであった。
連盟に公益法人の話が出たあたりから彼の言動が理解しにくくなり、連盟が米長一人に振り回されているように見え始めた。「棋界のナベツネになる。死ぬまで会長だ」そう米さんが宣言したという噂が流れてきた。握った権力は一生離さない。これは権力者の陥る通弊だ。もう握手できないと思った。
そんな頃、さわやかな声で電話を貰った。「前立腺がんと闘ったことを本にした。内藤さんも危なそうだから送りましょうか」。
私は「有難う、送るのは面倒でしょう。本屋に買いに行くよ」これが二人の最後の会話になった。
(以下略)
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将棋世界2015年7月号「内藤國雄九段 酒よ、夢よ、人生よ さらば将棋」にも内藤九段の米長永世棋聖への思いが語られている
→将棋世界2015年7月号(Google ブックス)の109ページ~110ページ
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石田和雄九段の新著『棋士という生き方 (イースト新書Q)』にも、米長永世棋聖の棋士としての数々の実績を讃えた上で、次のように書かれている。
1992年、ついに名人戦七番勝負で中原さんを破って、49歳で名人位に就いた偉業は素晴らしい。その後、2005年からは将棋連盟会長も務められました。
後輩の立場ではありますが、あえて一言。最晩年の独裁的な振る舞いは、如何なものだったでしょうか。
会長在職中の2012年、米長さんは69歳で逝去されました。ここに改めて、ご冥福をお祈りいたします。
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米長邦雄永世棋聖の会長時代は、たしかに功績も大きかったが、負の部分も少なくなかったと言われている。
亡くなる3ヵ月前、2012年9月の将棋ペンクラブ大賞贈呈式での米長永世棋聖(文芸部門大賞受賞)は、それまでの泥沼が全て抜けて、神々しい感じさえした。
本当にさわやか流だった頃に戻ったのだと思った。