藤井猛九段「見ていて退屈な展開は指している方も退屈だ。しかしやっぱり無理は良くない。地味で眠くなる展開こそ順位戦の味だ」

将棋世界2003年8月号、藤井猛九段の「藤井の実戦思考」より。

 お盆の空気が抜けない8月半ば過ぎ、ジリジリとしたアスファルトの照り返しの中を将棋会館へ向かう。千駄ヶ谷の駅からの距離がいつもより遠く感じられるのは暑さのせいだろうか。

 B級1組の順位戦には初参加。2連勝と滑り出しは良かったものの、前局で黒星を喫する。下位は3敗が昇級ラインだが、ここで連敗しては望めまい。しかも今日の相手は昇級筆頭候補だ。

 郷田八段(当時)が着座して対局が始まる。順位戦は予め先後が決まっているので振り駒もなくいつも始まりは静かだ。(郷田さんの先手だが便宜上先後逆)

 1図は藤井システムの構えから▲4八玉とした局面。

 居飛車は端歩を受けているので穴熊には組みにくいだろうと玉を上がるが、それでも△3三角(2図)と来た。

 これは一見穴熊を目指した手だが、素直にそう解釈してよいものかどうか。

 本気で穴熊を目指すつもりだろうか?だとすれば早い時間に決闘になる。昼食の注文は蕎麦ではなくうな重にするべきだったか?しかし端歩を受けてから組むのは危険だ。恐らく他の囲いを目指しているに違いない。

▲4六歩△2二銀

 これで早期決戦はなくなった。自分の推理が当たると嬉しいのはミステリーも将棋も同じだ。やはり蕎麦でよかった。

(中略)

 進んで3図。△1二玉は▲2五歩の仕掛けを警戒した堅い手ではあるが、やや妥協した感のある手。

 この手の狙いはなんだろう?ここから普通に駒組みが進むとB図のような局面が予想される。この展開はまさに一局としか言いようがないが、千日手模様になることがある。

 本局は実際私は後手番なので不満はないが、先手の居飛車側にとってはどうだろう?B図よりもう少し欲張った図を目指していると見た方が良さそうだ。△1二玉以下▲3九玉△3二金▲2八玉に△5一銀が狙いではないか?以下4二~2二へ銀を移動するとC図のように進む。

「現代風の居飛車は隙あらば4枚で固める手を常に狙っている」のである。この局面は玉が堅い上に角筋が通っているのが大きい。C図になっても振り飛車が悪い訳ではないが気分的に面白くない。10数分考慮の後対抗策を思いつく。

 ▲2七銀(4図)が工夫の手。

 直接の狙いは▲1八飛からの玉頭攻めだが、そう指さなくとも▲3八金で普通の形に戻せるので損はない。

 △5一銀なら▲1八飛△4二銀▲1五歩△同歩▲同飛△1四歩▲1八飛△3一銀▲1六銀△2二銀▲2五歩△同歩▲同銀△2四歩▲1四銀(D図)で大優勢。

 これはうまく行き過ぎで、途中△2二玉と避難するのだろうがそれでも▲2五歩△同歩▲同桂△2四角▲6五歩(王手)の筋があり居飛車が大変だ。

 思考を巡らせているうちに色々面白い筋も見えてきた。よし、△5一銀ならこの手で行こうと自信が湧いてきた矢先、僅か2分で△4四歩。

 あれ?なんだ、相手は最初からそちらの予定だったのか。△5一銀を心配して損した。今度の推理は空振りか。

 それならそれで、こちらも当初の予定通り▲3八金で不満なしなのだが、それだと相手の手を殺し合う地味な展開が必至。一度D図のような一気に必勝形の手を夢見てしまうとどうしてもそちらに魅力を感じてしまう。ただでさえこの暑くて眠い時間帯に地味な駆け引きは冴えない。△4四歩にも▲1八飛はどうだろう?以下△4三金右▲1五歩△同歩▲同飛△1四歩▲1八飛に△2二玉でさすがに無理か。しかし何かないか?どんどん読みが本筋から外れて行く。

 見ていて退屈な展開は指している方も退屈だ。しかしやっぱり無理は良くない。地味で眠くなる展開こそ順位戦の味だ。▲3八金。自然に指すのが一番だ。危ない時間帯だった。

(以下略)

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この回の講座は、

「気持ち良く玉を固められて気持ち良く攻められてはなかなか勝てない」

それを防ぐべく、巡らせた思考の揺れを体感していただけたろうか。

で結ばれている。

対局中の揺れ動く気持ち(優勢を感じて、早く終わって飲みに行こう、などと考えてしまうことなども含めて)が語られた自戦記は、間違いなく面白くなる。

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「本気で穴熊を目指すつもりだろうか?だとすれば早い時間に決闘になる。昼食の注文は蕎麦ではなくうな重にするべきだったか」

昭和の頃であれば、居飛穴に対しては振り飛車側も陣形を整備しつつ持久戦になったものだが、藤井猛九段の場合には、相手が穴熊を目指した瞬間に藤井システムが発動されるので、早い時間からの決戦となる。

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「一度D図のような一気に必勝形の手を夢見てしまうとどうしてもそちらに魅力を感じてしまう」

予定されていたお祭りや飲み会が、当日の夕方になって急遽中止になってしまったときの気持ち、に似ているのだろう。

真っ直ぐに家に帰るのが好手であるのに、気持ちが成仏できなくて、ついつい一人で夜の街へ出かけていってしまい、たくさんお金を使い過ぎて、あとで後悔をしてしまうことも多い。

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「自分の推理が当たると嬉しいのはミステリーも将棋も同じだ」

ミステリーは推理が当たらなかったときの方が嬉しい、自分の想像を超えた意外な展開だからこそ楽しめる、という考え方もある。

ミステリーの推理が当たると嬉しいというのも、勝負師ならではの感じ方かもしれない。