内藤國雄九段「才能と努力以外に必要なもの」

将棋世界2005年3月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 第18回 内藤國雄九段」より。

 私は昭和14年11月15日、兵庫県神戸市で生まれた。

(中略)

 父の職業は薬剤師で、内藤家は代々、薬局をやっていた。昔は、かなりはやったらしい。市営住宅に住んでいた。いま、王子動物園のあるところです。

 その下の方に、川崎重工や神戸製鋼があった。川崎重工は”かわじゅう”と呼ばれていた。造船業です。そこを米軍に狙われた。戦争が激しくなり、爆撃を受けた。それが、だんだん上の方までくる。私は防空頭巾をかぶり、母親に手を引かれて逃げた。空襲警報が鳴る。それはものすごく怖いことなんだけど、子どもというのは母親がいると安心する。不思議と恐怖心がない。懐かしい思い出です。

 疎開をした。滋賀県の木之本町というところです。ここには遠い親戚がいた。神戸から引っ越した。その翌日に住んでいた家が焼けた。焼夷弾です。疎開が一日遅れていたら死んでいた。

 年とともに運を感じる。たとえば新潟地震の前に家を売って遠くへ行った人もいれば、阪神大震災の直前に神戸へやってきて、お金も仕事も家族も失った人もいる。その運には、ものすごい開きがある。若い頃は人間は才能であると思っていた。才能さえあれば幸せをつかめる、と。あとは努力ですね。それが、だんだん変わってきて、基本は運だと考えるようになった。努力と才能と強運。この三つが揃わないと、なかなかトップにはなれません。

(以下略)

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空襲や大震災によって分かれる運命。

日常生活の中でも、気がつかないうちに運命が劇的に分かれているケースがあるのかもしれない。

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大山康晴十五世名人の場合であれば、升田幸三実力制第四代名人が同時代にいたことが強運だったと言えるだろう。これは升田実力制第四代名人にとっても同じことが言える。

羽生善治竜王の場合であれば、八王子将棋クラブとの出会い、二上達也九段が師匠であったこと、同世代に多くの強力なライバルがいたことが強運と言えるだろう。

藤井聡太七段の場合であれば、現在のところ、今までの多くの指導者との出会い、杉本昌隆七段が師匠であることが強運ということになるが、順位戦で五段昇段を決めたすぐ後の朝日杯将棋オープン戦で優勝して六段になったことも強運であることを示している。

通常なら3月の最終戦を終えるまでは昇級(昇段)が決まっていないことがほとんどであり、朝日杯将棋オープン戦優勝(四段→五段)の後に順位戦C級1組昇級が決まっていたなら五段のままだった。

いずれは昇段するだろうから、それが少し早くなったという話ではあるが、この流れも、藤井聡太七段が強運であればこそのものだと思う。