米長邦雄三冠(当時)「中原先生もこの将棋を負けてはいけませんねえ」

将棋マガジン1984年12月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。

 前日は対局が全部終わってから例のごとく「マルセイユ」へ行き、会館へ戻ってからもまだ話し込んで、ほとんど徹夜だった。それにもかかわらず、この日も真夜中までしっかり取材できたのは、眠気など吹っ飛ぶほどのおもしろい一日だったからである。

午後2時

 特別対局室は、米長-加藤(一)戦(十段戦)が最上席で、となりは中原-森(雞)戦(連盟杯)。

 はて、21日に中原と米長が並んで対局した時は、中原-大野戦が最上席だったが……。まあそんなことはどうでもよろしい。

(中略)

 米長-加藤(一)戦は、十段戦の挑戦権と残留に重大な関わりのある一戦だから、当然ペースが遅い。対して、となりの中原-森戦の方は早くも戦いが始まっている。

 7図は石田流に対して、「中原定跡」と呼ばれる急戦を仕掛けた局面。中原の次の一手は、さすがに本家と見る人をうならせた。

7図からの指し手
▲6六歩△2四飛▲2八飛△1七桂成▲2四飛△同歩▲1七香△2六飛▲4一飛△4六歩▲3八銀△2八飛成▲7五桂(8図)

 ▲6六歩は、アレッと誰もが小首をかしげた。ちょっとおかしいんじゃないの、というわけだが、とりあえず以下の進行を見ているうちに感嘆の声に変っていった。

  森は△2四飛と回り、▲2八飛と受けたのに対し、△1七桂成から強引に飛車を交換する。そして、△2六飛がしゃれた打ち場所で、△4六歩を利かして、△2八飛成と成り込んでは、うまく指し回したかに見える。

 ところが8図を見ていただきたい。▲7五桂と打たれて後手に受けがないのだ。△3八竜は、▲6三桂成△同玉▲6一飛成まで、まさかと思われるが、どうにもならない。

8図からの指し手
△5二銀▲4四飛成△3八竜▲4六竜△2九竜▲6五角△5四歩▲5五歩△3九竜▲8三角成△6二玉▲5四歩(9図)

 森自身も呆れただろう。△5二銀以外に受けがなく、▲4四飛成と角を抜かれたのだから。おまけに、▲4六竜と命綱の歩を取られ、さらに▲6五角まで残ったのだから、ひどいなんていうものじゃない。

 ▲8三角成の前に▲5五歩も抜け目のない手順で、▲5四歩と取り込んだ9図は、将棋はオワ、終っている。こういうのを、完璧な手順、と云うのではあるまいか。そこには、血が逆流するような鬼手もなく、息をのむ妙手もない。もちろん、狂ったかと思わせる異常感覚の手があるわけでもない。ただ初心者でも指せそうな平凡な手が続いているだけである。▲4一飛、▲4六竜、▲6五角……みんなやさしい当り前の手である。それが、何手か経つと必勝形になっている。これが中原の至芸である。「自然流」とは、よくぞいったものではないか。

(中略)

午後4時

 終わっている頃だと思って特別対局室へ行くと、やはり感想戦になっていた。板谷が、「またタネができたよ」といったが、これはなんのことかわからなかった。まさか、あの9図の局面から波乱が起るとは思えなかったので……、事実はなんとやら、それが起ったのである。

 12図はその後の局面。

 9図から57手。その間中原はぐずりにぐずった。50点、40点の手ばかりを指して、何度か決め所を逃した。慧眼の読者なら盤上に取り残された3四の桂を見て、その有様を想像されるだろう。そうして12図。ここが最後のチャンスだった。▲7三桂と打ち込み、△同銀▲同銀成△同金▲同馬と必至をかければ、先手玉は詰まないから勝ち。

12図からの指し手
▲8五銀△4七飛▲7七桂△6七金▲8七玉△7八金打▲9六玉△8八金▲7四銀△8七銀▲8五玉△7六銀不成▲7五玉△7三歩▲7六玉△7七金▲6五玉△4三飛成 
 まで、128手で森八段の勝ち

 手順だけを掲げておく。中味については語りたくない。もし盤上に並べていただけるなら、この気持わかっていただけるだろう。

 何度でも書くが、必勝の局面で、このくらいでいいだろう、などと甘く見て決め手を逃したり、あれもよい、これもよいと迷ったあげく、指した直後に悔やんだりすることはよくある。よくあるが、それは並の棋士の話である。中原にはそんなことはなかった。

 感想戦をかなりの棋士が見ていた。しかし口数は少ない。

 みんな一種の痛ましささえ感じていた。その空気を察して、となりから米長が立って来た。しみじみと「中原先生もこの将棋を負けてはいけませんねえ」といった。

 中原は「そうだよな」と頭をかかえた。それがあまりに深刻そうなので、米長は慌てて「こんなことはよくあるけどね」といい足した。

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「血が逆流するような鬼手もなく、息をのむ妙手もない。もちろん、狂ったかと思わせる異常感覚の手があるわけでもない。ただ初心者でも指せそうな平凡な手が続いているだけである。(略)みんなやさしい当り前の手である。それが、何手か経つと必勝形になっている。これが中原の至芸である。「自然流」とは、よくぞいったものではないか」

もちろん、中原誠十六世名人にも有名な▲5七銀のような血が逆流するような絶妙手が沢山あるが、この河口俊彦六段(当時)が書いた自然流が中原十六世名人の真骨頂。

7図から9図に至る手順は、名人なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、まさしく名人芸。

この対局に勝っていれば、中原十六世名人の名局になっていたことだろう。

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中原十六世名人は石田流崩しの家元のような存在。

石田流の悲劇(前編)

石田流の悲劇(後編)

この一戦の中原流石田崩しは、石田流の悲劇(後編)バージョンの変形。

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しかし、この頃は中原十六世名人が絶不調の時。

9図の圧倒的に優勢な局面から敗れてしまう。

不調とは、最初から最後まで不調なのではなく、部分的に不調が現われ、それが全体の足を引っ張る、ということなのだと見ることができそうだ。