小池重明氏「すべてを告白します」(中編3)

将棋ジャーナル1985年11月号、小池重明氏の「すべてを告白します(2)」より。

アマ・プロ対抗戦

 昭和五十四年、およそタイトルというものに縁のなかった私が、はじめて全国レベルでの大会で手が届きそうになったのが、
読売新聞主催の実力日本一決定戦である。

 この棋戦は名誉もさることながら、優勝賞金八十万円(現在は百万円)という大きな副賞があり、全国アマ強豪の憧れの的だった。もちろん私も一発を狙い、大いに頑張った。結果は同郷の名古屋出身の先輩、竹内俊男さんに名をなさしめることになったが、準優勝でも四十万円という大金が転がり込んだ。しかし、あぶく銭は身につかない。祝勝会だ、二次会だと、その日会場に来ていた横友十人位と飲み歩き、その晩のうちに二十万円位をきれいに使ってしまった。もっと堅実に金の使い途を考えればよさそうなものだが、その場の雰囲気で後へ引けなくなってしまうのが、私の弱さであり、甘さである。結局は後になってそのツケが回ってくるのであるが……。

 この頃「将棋ジャーナル」の企画で、アマ・プロ代表五人ずつによる総当り対抗戦が企画された。むろん総平手である。これまでアマとプロとの棋戦は、大駒落が普通視されていたので、これは破天荒の企画、といえた。おまけに勝者には賞金までつくのだから、こんな嬉しい話はない。私の闘志は燃え上がった。

 そして、もう一つ裏の事情として、私が「頑張ろう」と強く決意した理由があった。それは当時全国のアマ強豪と公式、非公式にいろいろと手合せをしてきた結果、私なりにある自信のようなものが芽生えていたのだが、この棋戦におけるアマ側代表として、私が補欠扱いされていたことである。

 プロ側は滝誠一郎五段(当時、以下同じ)、菊地常夫五段、鈴木輝彦四段、森信雄四段、脇謙二四段という活きのいい若手の粒揃いだった。

 これに対するアマ側は、当初の構想として関則可さん(アマ名人)、中村千尋さん(朝日アマ名人)、加賀敬治さん(アマ名人)、沖元二さん(アマ名人)、そして茨城の安嶋正敏君(東日本名人)だった。これがジャーナル誌の選んだ当時のアマ最強ともいうべきチーム編成で、私はその選から洩れていた。事情で安嶋君が辞退したので、その代りに私が辛うじて追加された。内心ひそかに自信をもっていた私は、思い切りガツンとやられた感じで、私のプライドは大いに傷ついた。

 これといったタイトルは何ひとつ持っていない私だが、実力的に諸先輩より劣っているとは思いたくなかった。ベスト五人の内には入れると思っていただけに、補欠扱いで選ばれたことに内心いらいらしていた。「序盤の下手糞な小池の将棋では完封されてしまう」「粘るだけの穴熊将棋はプロには通用しないだろう」とかいう意見もあったとか。

「ようし、盤上で決着をつけてやる!」

 これが当時の私の偽らざる心境だった。思い上がりと言われようと、傲慢とそしられようと、私は勝負師としてそのことを屈辱として感じていた。後になって私がアマ名人に執念を燃やすようになったのも、実はこの時のようなみじめな思いを度々味わされていたからである。「無冠の帝王」という恰好のいい言葉もあるが、つまるところ権威的なタイトルが無ければ、世間様は一人前に扱ってくれない。よし、それじゃ一丁いちばん立派なシャッポを奪ってやろうじゃないか、といった気持だったのである。

 さて、第一局目は対鈴木輝彦戦だった。

 折から女流アマ名人の湯川恵子さんが、「小池さん、差し入れは……」と聞きにきてくれた。私は渡りに舟とばかり「お願いします」と言った。まもなく品物(缶ビール)が届いたとの連絡が入り、私は別室に行って皆なに分からないように一気に飲み干した。ところが、それを何時の間にか見ていたのが奥山さんで、観戦記に「太一文字のような神経」と書かれてしまった。

 しかし、本人は「繊細過ぎる神経」のせいだと思っている。他人の目には粗野で太々しい態度と映っても、私自身は極度の緊張と不安に堪えかねて、気持をリラックスさせ平常心を保つために、ビールの力を借りているのだが……こんなところにも私の性格のひ弱さ、人間としての脆さがあらわれているのだろうか。

 将棋は中盤の終り頃、絵で描いたように私の一発が決まり、やっとこさ辛勝した。私は最初の一番を勝って、ホッとした。局後の検討で、鈴木さんの将棋に対する深い愛情と思い入れのほどがずっしりと伝わってきて、この後は何番勝っても鈴木さんには勝てないのではないか、そんな感じさえ抱かされた。

 第二局は対森信雄戦。

 私は例によって四間飛車に振り、穴熊に囲った。中盤またも苦戦。マムシのと金が二ヒキ、わが穴熊陣のすぐそばまでにじり寄ってきた……終盤森さんが間違えて、やはり辛勝。じっとりと脇の下が汗ばんでいるのが分った。内容的には二連敗だが、ともかく二勝をもぎとって、私は責任を果したような気楽な気分になった。

 第三局目、対脇謙二戦。一つ覚えの四間穴熊で、やはり中盤必敗形になった。しかし、脇さんもちょっとぐずり、唯一のチャンスが私に回ってきた。だが、私の力ではその時手を発見することが出来なかった。局後になって学生強豪でやはり穴熊党の美馬和夫君に教えてもらい「そうか!」と口惜しがった。けれども、考えてみればそんなに何度も悪い将棋を引っくり返すことは出来るものではない。この一戦で漸く固さがほぐれ、ふだんのペースに帰ったような気がした。

 第四局目、対菊池常夫戦。第五局目、滝誠一郎戦。

 いずれも苦しかったが、何とか勝つことが出来た。通算で四勝一敗。私にとっては望外の成績だった。全体としてはプロ十五勝、アマ十勝で、一応アマ側の善戦といえたが「やはりプロは強い」というのが、私の正直な感想だった。

 その後いろいろな機会にプロ棋士と対局する機会に恵まれたが、自分としては、まずまず納得できる成績を残せた。その中で
も印象深かったのが、対田中寅彦戦(当時五段)だった。

 これは週刊誌の企画で指した。

 田中さんはお家芸の居飛車穴熊、私は四間飛車で美濃囲い(銀冠)。難解な中終盤が続いたが、結局私の指運が良かったのか、何とか幸いする。その頃の私は経済的にも精神的にも非常にハングリーな状態にあり、そのためかえって将棋は無心に、一所懸命に指せたような気がする。

”プロ殺し小池重明”などと「週刊現代」に書かれ、私はしてやったりと鼻の下を伸ばし、その記事を何度も何度も飽かずに読み返したものである。

宿願のアマ名人に

 ”読売二位”、これが当時の私の将棋の肩書だった。何時頃からか、私はこの肩書が次第に苦痛になりはじめていた。二位はどこまで行っても二位、一位とは根本的に違う……そんな思いが昭和五十五年度アマ名人戦都下予選に私を駆り立てた。

 明日は初日の予選が始まるというのに、例によって新宿歌舞伎町の「リスボン」で皆なと飲んでいる。時計の針は深夜の二時を回った。「小池サン、明日は大会だから、もう帰ったら……」と心配してくれる人がいるかと思うと、すかさず「人並みに早く帰って寝なければ、お前は勝てないのか」などと、乱暴な発言があったりする。どちらも友情に溢れた、好意的な人達だから厄介である。結局朝まで飲み明かし、一睡も出来なかった。

 そんな調子で一日目、二日目を通過して、いよいよ最終日。今日は準決勝と決勝の二局のみ。

「今日だけは、おとなしく家へ帰って寝たら……」と誰かが言う。「うーん、そうしようかナ」などと言いながらも、淋しがり屋の私は何故か去り難い。私のどうしようもない、だらしのないところである。ワイワイガヤガヤ騒いでいるうちに、気がついたら朝。「もう今日は行かないヨ。疲れて、眠くてしようがない」「ここまできて何にを言ってんだ」「いや、もう沢山だ」などと、押し問答。挙句の果て、引きずられるようにしてタクシーへ押し込まれ、八王子の会場に向かう。

 最終日ということもあって、会場には悪仲間の応援団の数も多い。しかし、どうにも眠くてたまらない。とうとう準決勝の対局途中で、たまらなくなって持時間を三十分間さき、横になってしまう。ほんとに、とんでもない奴だ。後になっては、そう思う。

 悪運が強かったのか、運命の女神の気まぐれか、ついに十二年ぶりにしてアマ代表となり、全国大会に出場することになった。

 ここまでくると、何としてもアマ名人になりたい、せめて予選だけでも通過しなければ面目が立たない。などとさまざままな思念が頭の中を駆けめぐり、錯綜し、点滅する。そして、少しずつ少しずつ気合が熟し、闘志が燃え上がって行くのだった。

 この頃は将棋べったりの生活に溺れ、仕事にも行かなくなり、当然金も家へ入れられなくなっていた。家へは一週間に何度かしか帰らなくなり、夫婦間の意思の疎通にも欠けるようになって、妻とロゲンカすることが多くなった。あれやこれやと不利な材料ばかり重なって、全国大会を後半月にひかえて、とうとう離婚沙汰。折角子供まで出来たのに、私の余りの無軌道な生活振りに、すっかり愛想を尽かされてしまったのである。

 将棋に夢中になると仕事がでたらめになって職を失い、妻と別れ、それにこりて将棋をやめると新しい仕事と家庭を得るが、暫くするとまた将棋を思い出す……こんなパターンの繰り返しで、いくら呑気な私でも時には深刻に考え込み、私のような男は家庭を持ってはいけないのではないか、結局は相手のひとを不幸にするばかりだ、などと自責の念に駆られるのだった。

 こんな状況の中で全国大会を迎え、私はどうしても勝ちたかった。

 家庭や仕事を犠牲にしてまでも将棋に打ち込んだ男が、明るい妻子の愛情に包まれて、経済的にも余裕のある生活をしている男たちに何で負けなければいけないか、何で負けられようかと、私は自分自身を追い詰め、ライバルたちに一種の敵意をもって当日にのぞんだ。

 いよいよその日が来た。

 予選は二勝通過、二敗失格で、二局もしくは三局戦かう決まり。初戦山形代表の土岐田勝弘さんにしっかりと負かされる。思わず背中が寒くなってくるのが自分でもわかった。後を必死に頑張り、何とか通過したが、前途多難を思わせた。

 二日目からは本戦(トーナメント)である。ベスト四位までを決める。その途中で大阪の加賀敬治さんと当った。迫力ある人だった。盤上没我という言葉がぴったり当てはまる対局態度で、私はその大きさを敏感に感じとっていた。戦型は相振飛車となり、私は当然のごとく穴熊に囲った。戦かいは私の無理攻めが幸いして、私は大きな関門をまた一つくぐり抜けることが出来た。

 最終日、宿舎に使用されている中野サンプラザの一室で朝早く目覚めた。時計は五時前を指している。やはり緊張しているのだろうか、何時も朝の遅い私としては珍しいことである。自動販売機で缶ビールを一本買い求め、窓から中野の駅を眺めた。何時も見ている感じではなく、駅のたたずまいが何となく違った感じで、どこかスッキリしている風に見えた。私の気持は無心というのか、おだやかで澄み切っていた。「今日はイケそうだナ」と私は漠然とながら、何となく予兆のようなものを感じていたのである。

 準決勝は大阪の沖元二対京都若島正。秋田の野藤鳳優対東京小池重明。どんな組み合わせになっても決勝戦は東対西というドラマチックな形になるわけだ。会場は千駄ヶ谷の日本将棋連盟。

 沖さん対若島さんは、一生に一度ともいうべき大ポカが若島さんに出て、沖さんの勝ち。私は百数十手を費して、野藤さんに辛勝した。

 決勝戦は舞台がNHKに移った。放映の本番中、トイレに行きたくなって、席を外した。対局者が一人しか画面に映らなかったのは初めての出来事だと、後で聞いた。こんなところにも、私がとかく誤解を招きやすい要素があるのだろう。私はただ緊張のしっ放しで急に尿意を催したに過ぎなかったのだが……また早指しは苦にならない方だから、持時間が五分や十分短かくなっても、さして困らない。

 さて、将棋は中盤で沖さんに錯覚がありやっとのことでアマ名人になることが出来た。大切なものを失って、他人には言えない苦しみの中で手に入れたアマ名人位だけに、私の喜びはひとしおだった。そして、これでやっと一人前の肩書が生まれたと、重い肩の荷を降ろしたような気がした。

 当時なにかと公私にわたって私の面倒を見て下さった古沢文雄氏が、天狗茶屋という将棋居酒屋を歌舞伎町で開いていた。とてもユニークな飲み屋で、将棋界はもとより地元の名物の一つとなっていたが、そこで祝勝会を開いてもらった。各界から五十人ほど出席され、私は幸福感に酔い痴れた。思わずショッパクて、甘い涙がにじみ出るのだった。二十代の初めに上京した私は、いつしか三十二歳になっていた。

(次回の最終回は、私にとってもっとも書きにくい部分の話になります。どうかよろしくおつきあい下さい)

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「家庭や仕事を犠牲にしてまでも将棋に打ち込んだ男が、明るい妻子の愛情に包まれて、経済的にも余裕のある生活をしている男たちに何で負けなければいけないか、何で負けられようか」

最大級の物凄い迫力だ。

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将棋世界1980年11月号、中瀬奈津子女流初段(当時…現在の藤森奈津子女流四段)の「ピッカピカの小池さん、アマ名人に」より。

 アマ棋戦の中で最も大きな行事である全日本アマチュア名人戦が9月7日(日)から3日間、東京千駄ヶ谷の将棋会館で行われた。参加者63名、北は北海道から南は沖縄まで、どの顔ぶれを見てもアマ棋戦では最高の大会である。

(中略)

9月6日(土)、午後6時より中野サンプラザで前夜祭が行われた。

 実はこの日、新宿の厚生年金会館で日本アマチュア将棋連盟主催の大会が行われており、やはり各県から勝ち抜いてきた代表18名が戦っていた。

 私も知人が出場するというので観戦に行ってみると、どこかで見たことある人がいる。沖さんと野藤さん。

(中略)

 夜は天狗茶屋でパーティ。アマ名人戦東京代表の小池さんが中野サンプラザから出場者の方々を連れて来て下さったので、急に賑やかになった。

(中略)

 小池さんはピッカピカの32歳。どうしてピッカピカなのかと言うと、実は沖さんも加賀さんも32歳の時最初の名人になっている。

(中略)

 小池さんは無冠の帝王ながら貫禄は充分。人望も厚く、将棋だけでなく人間的にも素敵な人。

(中略)

 決勝戦は午後からNHKで行われた。解説に内藤九段、聞き役には田辺忠幸さん。準決勝で敗れた二人もゲストとして出演することになっている。

 11:30にNHKからマイクロバスが迎えに来て一同NHKに向かう。NHKでのアマ名人戦決勝は今年で3年目。NHKで決勝戦の模様を放映して全国の方に対局者の表情などを見ていただけるというのは大変良いことだと思う。

 小池さんは初出演。沖さんは3回目だそうだ。沖さん「最初はちょっとドキドキするけど指し始めれば同じことや。でもいつ映されるかわからんからなァ。前に出たとき舌出してるところが映っちゃってねエ……」一方の小池さん「対局中は別にトイレに行ってもいいんでしょ?」とトイレの下見。

 昼食は沖さんお寿司、小池さんはヒレカツを食べて、リハーサル。座談会の後、3時対局開始。序盤ちょっと沖さん指しやすいかのように見えたが、中盤勘違いをしたため、局面はにわかに小池ペースとなり、その後沖さんも頑張りを見せたが、結局171手の大熱戦の末、小池さんが第34期アマ名人となった。

 表彰式の後、NHKの7階で簡単なパーティーがあった。

 そこでの小池さんの感想「嬉しいのひと言です。来年は沖さんとやりたくないなあ(笑)」

 内藤先生の新曲のお話なども伺えて本当に楽しいひと時を過ごした。

 この4日間、アマトップクラスの方々のお話を伺って感じたことは、将棋が強くなるということは人間的にも出来てくると思ったこと。

 将棋の強い人に悪い人はいないという事をつくづく感じました。

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小池重明氏が魅力的なキャラクターであったことがわかる。

32歳までに結婚を含めて同居した女性が3人いたことがその一面を物語っていると思う。

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将棋世界1980年11月号グラビア「第34回アマ名人戦 うわさの強豪 小池重明氏が優勝」より。アマ名人戦決勝の対局中。