井上慶太五段(当時)「きょうは勉強のため中飛車を指そうと決めてたんです。それもフウシャ(風車)で……」

近代将棋1987年10月号、伊藤果六段(当時)の第10回若獅子戦準決勝〔井上慶太五段-中田宏樹四段〕観戦記「置かれたままのメロン」より。

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「昨年は出来すぎ」と中田は謙遜するが、勝率1位なんて、獲りにいって獲れるもんじゃない。井上は60年度暴れまくり、若獅子・新人王と2回の優勝経歴をぼつ。この二人、ぼくにはまだ無縁なものをすでに勝ち得ている。嫉妬をもろにぶつけながら、二人の表情を見た。井上は童顔。しかし底にあるシンの強さがメガネの奥から読みとれる。中田は精悍。かなり目立つホクロと細長な顎のラインに硬骨さを示す。不幸なことか、幸せなことか、ぼくはどちらとも対戦がない。

 戦いは静かに始まった。二人は初顔合わせ。

(中略)

 井上の得意は「腰掛銀」だという。先手だとそれが誘導しやすい。着々と実行する。

「後手番でしたら飛車を一度もまだ振ったことがないので、きょうは勉強のため”中飛車”を指そうと決めてたんです。それもフウシャ(風車)で……」

 局後、井上はしらじらしく”嘘”を云った。

 若者ながら、頭の回転が早い男だとぼくは思った。関西の人気者ときくが、これで頷ける。将棋も元気がいい。敢然と仕掛けた。

(中略)

 中田は自分のことを「古い人間のタイプ」だという。高校時代、こんなエピソードがある。彼はひそかに慕ってた同級生がいた。しかし打ち明ける勇気がないまま、相手の卒業をじっと見送った。皮肉なことに、好きでない女の子からは”付き合って”と打ち明けられるが、それにははっきり「お断りします」と返事した。ライトな感覚が流行る時代でも、中田なら、この融通の利かなさをいつまでも愛してゆくことだろう。

(中略)

 ぼくは対局室を抜けだし、元の記者室でこの将棋を並べていた。そこに思わぬ”大物”が姿を現す。井上と同じく、関西から遠征の村山である。あくる日が対局だという。

「誰と誰の将棋でっか」

 愛嬌のある顔と肉体が盤の前に、どっかり座った。一瞥のあと、彼はこう云った。

「これは井上ハンのいつものパターンですわ。読まずに行くだけいって、アカンかったらそこから考え直す。ほう、△8八歩~△5五角……こりゃ、パンチが入りましたなあ。角成り受けたかて、△6五歩、△7六歩の味がよすぎるしな。もうアキマヘンやろ」

 さすがというべきか、屈託のない男である。

(中略)

 席に戻ると、ぼくのそばにもおやつのメロンが一切れ置かれてあった。中田は額にシワを寄せながら頬張っている。出されたものだから仕方なく、そんな表情だった。見ていると中田はあえて、心の余裕を拒絶しているふうに思えた。開始直後から終了直後まで、顔を苦渋で通した。

(中略)

 前回の最終手△8七銀成を中田は悔やむ。

「ここは”ナラズ”とゆくべきでした。これなら▲7九金に△8八銀成(不成)、△7六銀成(不成)と、幅広く対応できたのに……」

 やはり時間に追われた焦りからか。精密な指し手に狂いが生じはじめた。この誤差が中田の思考を狭めてゆく。

(中略)

 将棋の投了図は、その一局の象徴でもある。

 中田の残骸となった銀3枚が痛々しい。

 そして全駒、一枚、一枚が美しい。

 過ぎされば、みな「華」である。

「メロン、嫌いなの?」

 ぼくは別れ際、手をつけないままに置かれてあったメロンが気になった。

「はっ……えっ……大好きですがぁ。あれっ、あったんですねぇメロンが……まったく気がつきませんでした」

 そう答えた井上の言葉が、なぜだかぼくには深く印象に残った。

 中田と一緒に駅まで歩く時間が、いつもより長く感じられた。

* * * * *

そういえば、7月9日に行われた棋聖戦第4局の豊島将之棋聖-渡辺明二冠戦でも、豊島名人のメロンが最後まで残っていた。

中井広恵女流王位(当時)の自戦記(第1期女流王位戦五番勝負)でも、メロンが対局終了時までそのままになっていたと書かれている。(ただし、この時は終局後に食べている)

林葉直子女流王将(当時)「私、植山さんにずっと嫉妬していたんですよ」

メロンは、他のおやつや果物と比べて手軽に食べられるというものでもないので、対局に集中しているとついつい残ってしまうのかもしれない。

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井上慶太五段(当時)の「きょうは勉強のため”中飛車”を指そうと決めてたんです。それもフウシャ(風車)で……」。

「風車」は伊藤果六段(当時)創案の戦法。

井上五段のサービス精神。

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途中登場する村山聖四段(当時)が、とてもいい味を出している。

村山聖九段と井上慶太九段は、仲が良かったようだ。

村山聖七段(当時)のボケと井上慶太六段(当時)のツッコミ

村山聖六段(当時)「井上先生、1回だけでいいんです。負けて下さい」

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「彼はひそかに慕ってた同級生がいた。しかし打ち明ける勇気がないまま、相手の卒業をじっと見送った。皮肉なことに、好きでない女の子からは”付き合って”と打ち明けられるが、それにははっきり『お断りします』と返事した。ライトな感覚が流行る時代でも、中田なら、この融通の利かなさをいつまでも愛してゆくことだろう」

中田宏樹八段らしさ溢れるエピソード。

気持がよくわかる。