「羽生や森内なんかはどうも女性に溺れるようなタイプにはみえないんだけれどもね」

将棋世界1988年2月号、河口俊彦六段(当時)、石堂淑朗さん(脚本家)、読売新聞の山田史生さんによる「特別企画・新春辛口座談会」より。

司会 本日はお忙しいところどうもありがとうございます。さっそくですが、棋界に詳しい皆さんに1987年を振り返っていただき、新人類の活躍をどうみるか。1988年はどういった展開になるのか、また、棋界が発展していくためには等、忌憚のないお話をしていただければと思います。名人戦の中原-米長、棋聖戦の桐山-西村というカードを除くと、若手に押されっぱなしという感が強かったですが。

河口 名人戦でいえば谷川、南以外はレースに参加できないからね。他の若手はここまで昇ってこなくちゃいけないから。だから谷川にとって今年はチャンスでしょう、名人を獲る。

司会 昨年の名人戦第1局では石堂さんに小誌では観戦をお願いしましたが。

石堂 一時の中原じゃないという感じで、名人戦が最強者の戦いではなかったように思いましたね。専門家の指摘では名人戦らしからぬ落手も多かったようですし、疲れてるんじゃないですかね。僕はいま55歳ですけれども40の声を聞いた頃からたとえば二日酔いが三日酔いにもなっちゃったと思うんです。将棋も同じように、これだけ棋戦が多いと疲れが抜けない。体力のある若い者とは決定的に違ってきますよ。

河口 森安がそうだね、立ち直る可能性は充分あるにしても、何年か前の活躍が信じられない感じだもの。

石堂 僕なんかの商売は時間を余分にくれるといえば若い者とも張り合えるけれども、将棋の場合はそうはいかないでしょう、体力差は大きいと思うな。

司会 ただ、年齢や体力差だけでしょうか、塚田が中原から王座を連敗後3連勝で奪ったり、天王戦の決勝戦が森下、羽生の組み合わせになったのは。実力が接近しているんでしょうか。

河口 そうでしょうね。最近じゃないですね、プロ筋は2年以上前から判っていましたよ。

山田 いつの時代でも同じでしょ、40代よりは20代の方が明らかに強いのは。

石堂 そりゃそうですね。

河口 だけど20代じゃないんだ、10代なんだね、今は。それで今までの若手と同じ物差しじゃ計れないんですよ、羽生を代表とする何人かは。レベルが随分と上がっている。石堂さんじゃなかったですか、一番最初に羽生の強さを認めたのは。

石堂 僕じゃないんですよ、僕の息子がね、ある時小学生の大会かなんか見ていて、かわいい顔した子がやたら強いというんで。

山田 それが羽生だった訳ですね。

司会 第一人者を中心にというんでなく、昨年のような状況は続きますかね。

山田 続くような気がするね。だいたい科学の発達と同じで皆、進み方が加速されてるでしょう、将棋も同じ範疇に入ると思うな。

河口 僕は違う方向へ行くと思うな。3、4人の若手がまとめてくると思いますよ。名人はともかく、他のタイトルは10代が3つ4つ取るんじゃないかな。

司会 10代がですか!

河口 つまり僕はね、ここ1、2年は将棋界の産業革命が起こったと思うんですよ、技術革新がね。

司会 それは情報量ですか。

河口 中村なんかがそう言ってるね。ただ、序盤とか中盤までは情報でカバーできても、終盤は才能だと思っていた訳ですよ。それを中村は、いい棋譜を並べれば得られる、というんだね。10代のレン中は単なるコピーでなく優れた処理能力がそれに加わっている気もするしね。この辺がまだよく判らないけれども。現実に棋譜を見れば10代の若手のものには何の冴えも感じないし、米長や谷川の方がはるかに才気を感じてるんだけど、勝負となると勝てない。不思議だね。

石堂 大山は住み込みの苦労を知らないと駄目とか言ってましたけれど、今ははじめからワンルームマンションでエレガントにやってる方が強いと。

石堂 だから、彼らが10年もつかもたないかというのは大問題でしてね。普通20から30にかけては人格形成の時期といわれるでしょ、それと並行して将棋も強くなっていくんならともかく、ぱっと強くなってそれからいきなり酒と女という二つのカベにぶちあたって、コロッと狂って2、3年後には見るも無惨になってしまうんじゃないかという。

一同 (笑)。

石堂 今の若者にはハングリーさがない、男女関係もハングリーさがなくて、例えば謝国権に言わせると、お互いに美男美女のイメージが先行していて具体的にはろくなのがいないからつき合わない、全部頭の中だけでいいという。将棋もそんな考え方になっちゃうとね。20代後半から絶対にカベがあるはずですよ、人間的にね。谷川や羽生が酒や女の味を覚えたらどうなるか、一般に東大出たてがすぐに実社会で通用する訳がないのと同じで、将棋界で現在ハイティーンが活躍しているのは全然信用できませんね。将棋だけが強いのは5年、10年たってみないと。

河口 そうね、ずうーっと強いだけという人間の観戦記は、モノ書きとして困っちゃうね。どうしようもない。

石堂 若手の活躍は東大の学生が実社会ではなく、卒業論文の世界で素晴らしい成績を挙げているのと同じで、見ていてもおもしろくない。やはり中原、米長の将棋こそという思いですね。現状をどう見るかときかれれば、若手タイトルホルダーの観戦記はもう書きたくない、という思いがどんどん濃くなってきている。

司会 若いが故に話題がとぼしいということとは違いますか。

石堂 だからたったひとり書きたい素材がいますね。あの苔丸の村山(笑)。

河口 皆さんそう言いますね。師匠の森といっしょにインタビューしたいとか。

石堂 別に奇行の持ち主というんじゃなくて、何かこちらに伝わってくるものがあるんですよ。人間味というかね。

山田 戻るようですが、羽生や森内なんかはどうも女に溺れるようなタイプにはみえないんだけれどもね。

河口 それは谷川や高橋にもいえるね。彼らは一種独特の女性に対する拒否反応みたいなものがあるみたいだし。

山田 中村はちょっと雰囲気が違うかな。

司会 トップを目指そうという人達は自己規制に優れているんでしょうね。

河口 少年達はそういったことすらも考えてないでしょう。将棋の為にああしちゃいけない、こうしちゃいけないなんて。

石堂 僕なんかはそういった将棋の強さと人間的なものがどうも結びつかなくてイメージが持てませんね、これからどうなるか、ということが。そういうイメージを持てないことが淋しいですね。新人類達が席捲している将棋界はまるでイタリアの政界みたいですよ。誰がどうなるか判らない。

司会 棋界にペンクラブができたのも画期的なことだと思うんですよ。

石堂 そう思えるのは危機感があるからですよ。

河口 それは言えますね。将棋連盟でも愛棋家という人達と縁遠くなっていることに気がついたんですね、それじゃいけないという事で。もっと世間にアピールしなければいけないという危機感ね。

石堂 碁の方は文壇大会はありますよね。将棋の方もあればおもしろいでしょう。

河口 いろいろと接点を見出してやっていきたいと思ってはいるんです。棋界と将棋ファンとのね。

山田 これからの活動を期待しましょう。

(中略)

司会 石堂さんが、まるでイタリアみたいと評した1987年の様相ですが、この辺をもう少し突っ込んでお話いただけませんか。

河口 棋界には合わせて19の公式棋戦があるんだけれどもね、驚いたことにひとつふたつを除いて優勝者の名前が全部違うんだね。驚くよりあきれたね。

山田 先ほども触れていましたけれど、中堅、低段の棋士のレベルが上がったんでしょう。

河口 上がったのは確かですが、上がちょっと落ちている気がしますね。そうでなければあんなにコロコロ負ける訳がない、と思いたいですね。それでその象徴的なのが米長だね。さっきの16人だか17人だかの名前にないんだもの。

石堂 我々の世界はね、映画監督10年説というのがあるんですよ。本気でやったら10年がいっぱいで、後は余生でやる。将棋の場合はそれが通用しないからね。

河口 ひとり例外の人がいるでしょ将棋界は。あの人についえは論理が成り立たないから。確かに大山ほどの人が情報豊富な今の時代に生まれていたら凄いことになっていると思うね。

山田 大山はともかく、今のA級が落ちているとすれば、下の者にとってはチャンスですよね。順位戦は制度的に無理としても。別の見方をすれば高橋のように二冠持っている者がB2にいる、というのは正常ではないと思いますがね。

河口 ただ順位戦というのは他と比べるとはっきり質が違いますね。

石堂 基本的には全員穴熊を指したいんだけど(笑)という感じですか。

河口 感じはね。負けて失うものがあるでしょう。他は勝てばプラス、負けても失うものがないという感じが多かれ少なかれね。そういう意味で竜王戦が誕生したのは大きな意味があるんですよ。やはり勝負は負けて失うものがないんじゃつまんないですよ。

山田 その辺の所を担当者として言いたいのは、順位戦より回転が早くてより厳しいものに、ということで3年がかりでこぎつけた訳なんですね。棋士にも反対はなかったし、喜んで貰えましたし、嬉しく思っているんです。

河口 その通りなんですが、もっと厳しくてもよかったでしょう。

山田 はじめはそういう意見もあったんですけれどもね。昇降級の人数をもう少し増やそうとかね。

河口 ちょっと不満なのは下の者が各段戦で上がっていかなくてはならないから不利でしょう。その辺が改善されないかなと思いますね。

山田 考慮の余地はあると思います。

司会 何年かすると順位戦とは違った竜王戦独自のランキングができて見比べられるのでおもしろいですね。

(中略)

河口 石堂さんが今の若手の10年後がどうなるかという話で思ったんですがね、僕もね、疑い始めてるんですよ。人間というのは年をとるにしたがって年々進歩するもんだと思うし、将棋界の考え方もそうだったんですよ。20歳で八段になれば30歳の頃は大名人になっているというようなね。大方がそう思ってると思いますよ。だから若くして四段になった方がいいと言うけれど、それはちょっと違うんじゃないかと思ってきたんですよ。この頃。

石堂 30代までに微妙な感じで香一本強くなるようなことがなくなって、10代後半あるいは20代前半でピークを迎えるというのは恐怖ですね。あとは余生ですもんね。

河口 僕は今の20代棋士全員に対して感じるんですね。

石堂 怪物大山、升田にしても最初は居飛車で頭が割れる程考えて指して、おじいさんになったら体力がなくなって楽な振り飛車を指す。という、そういった節目が今の新人類にはないでしょう。節がなくてファイバーグラスみたいにスウーッとのびているだけだからね。ところが人間は節目がなくちゃ生きていけない動物だからね、あの若い人達がいったいどこで節目を作るのか、そういう意味では信用してませんね。

山田 陸上競技でそのカベというのがありますよね、9秒8とか7とか。人間に限界がある訳で、棋界で若い時に活躍したからと言っても10年後には素晴らしい卓越した技術を持った棋士になるということは言えませんね。ちょっと早く成長したことは事実としても。

河口 だから、そういった見方が出てきたというのが大きいんじゃないかな。昔は絶対になかった考えだもの。谷川が名人になった時にもなかったもの。末は大山名人を越えるんじゃないかという意見はあってもね。事実今の谷川とその当時を比べればはるかに名人の頃の方がよかったもの。将棋や成績がね。

石堂 その伝で行って羽生善治は今が一番強いとしたら悲劇だね(笑)。これからは落ちるばかりで。

司会 新年号の升田-内藤対談の中でも内藤先生が同様のことをおっしゃっていましたね。

河口 今までは将棋の技術的な面が、神様がいるとしたら相当近づいてきたんじゃないかと言われてましたが、ところが本当は100のうち20か30のレベルでとても90なんて事じゃないので、皆が強くなれるんじゃないか、という気もしますね。

山田 芹沢さんなんかは100のうち5だなんて言ってましたけれどもね。5ぐらいなら誰でも行けると。藤沢秀行さんは6だって言ってましたが(笑)。

河口 記録のカベと同じでどのくらい進歩するか判らないけれども。

(つづく)

* * * * *

昭和から平成に移り変わる前の年の、激辛座談会。

この時のタイトル保持者は次の通り。

中原誠名人
高橋道雄十段・棋王
桐山清澄棋聖(南芳一八段が挑戦中→奪取)
谷川浩司王位
塚田泰明王座
中村修王将(南芳一八段が挑戦中→奪取)

つい最近まで中原・米長時代だったのが、中原誠名人は一冠のみ、米長邦雄九段は無冠という時期。

20代への世代交代が始まったか、という流れだった。

* * * * *

そのような中、河口俊彦六段(当時)の、

「だけど20代じゃないんだ、10代なんだね、今は。それで今までの若手と同じ物差しじゃ計れないんですよ、羽生を代表とする何人かは。レベルが随分と上がっている」

「僕は違う方向へ行くと思うな。3、4人の若手がまとめてくると思いますよ。名人はともかく、他のタイトルは10代が3つ4つ取るんじゃないかな」

は、まさしく近い未来を的確に予言していた。

* * * * *

また、河口六段の「つまり僕はね、ここ1、2年は将棋界の産業革命が起こったと思うんですよ、技術革新がね」も見事な視点で、2005年に先崎学八段(当時)が、同様の主旨の記事を書いている。

先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」

* * * * *

「だから、彼らが10年もつかもたないかというのは大問題でしてね。普通20から30にかけては人格形成の時期といわれるでしょ、それと並行して将棋も強くなっていくんならともかく、ぱっと強くなってそれからいきなり酒と女という二つのカベにぶちあたって、コロッと狂って2、3年後には見るも無惨になってしまうんじゃないかという」

このような図式に陥らないということは、羽生世代以降の棋士たちが証明している。

* * * * *

「だからたったひとり書きたい素材がいますね。あの苔丸の村山(笑)」「皆さんそう言いますね。師匠の森といっしょにインタビューしたいとか」「別に奇行の持ち主というんじゃなくて、何かこちらに伝わってくるものがあるんですよ。人間味というかね」

四段デビューして1年程でこのように思われるのだから、村山聖四段(当時)の個性が際立っていたということだ。

森信雄五段(当時)と一緒のインタビューがあったら、本当に貴重なものとなっていただろう。

* * * * *

「羽生や森内なんかはどうも女に溺れるようなタイプにはみえないんだけれどもね」「それは谷川や高橋にもいえるね。彼らは一種独特の女性に対する拒否反応みたいなものがあるみたいだし」「中村はちょっと雰囲気が違うかな」

中村修王将(当時)は、喜んでいいのかそうではないのか、とても微妙な気持ちになったと思う。

 

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amazonでの将棋関連書籍ベストセラーTOP30。

 

先崎学四段(当時)「ウソだろう。オレずっと先手番だと思って研究してたのに、ひどいよお」

将棋世界1988年12月号、青島たつひこ(鈴木宏彦)さんの「駒ゴマスクランブル」より。

 先崎学四段、中田功四段、佐藤康光四段、石川陽生四段、日浦市郎五段…。みんな4階記者室、桂の間の常連である。

 彼らは対局の多い日や重大な対局のある日は必ずこの部屋にきて、熱心に将棋を調べている。対局がすべて終わるのはまず深夜。終電がなくなるケースも多く、そうした場合は幾人かのメンバーは新宿まで歩いて行って別の勝負をガラガラ始めるということも多いようだ。

 10月14日夜、記者室で先崎四段が大声を上げていた。

「誰か振り飛車党の人、研究会の相手になって下さいよ。石川さん、お願いしますよお」

石川四段「その日はちょっと都合が悪くて……」とか、ゴニョゴニョ。

 4日後の18日にはC級2組の順位戦がある。先崎四段の対戦相手は大野八一雄五段。大野五段が振り飛車で来ると予想している先崎四段、対振り飛車戦の特訓をしようというのである。

 そのうち誰かが「大野さん、先手なのに飛車振るのかなあ」といい出した。

「ええっ」とたんに先崎四段の顔色急変。「ホントかよ」(表を確認しながら)「ウソだろう。オレずっと先手番だと思って研究してたのに、ひどいよお」

 先崎四段、本気になって慌てている。相手は先手だって飛車振るかもしれないし、先手だって後手だって大した差はないだろう、というのはシロウト記者の考えらしい。

「前もって対戦相手と対局日、先手後手が決められている順位戦では、対戦表ができ上がった時からもう勝負が始まっているんですよ」

 そういえば何人かの若手棋士からこの言葉、聞いたことがある。普通の棋戦は勝ち進んでみなければ、次の対戦相手も対局日も分からない。先手後手に至っては対局当日の振り駒まで分からないのがほとんど。対して順位戦はすべてが前もってきっちり決まっていて、そこでも神経をすり減らすことになる。

(以下略)

* * * * *

将棋世界1989年2月号グラビアより。撮影は中野英伴さん。

* * * * *

「ウソだろう。オレずっと先手番だと思って研究してたのに、ひどいよお」

奔放で無頼派だった当時の先崎学四段(当時)と「一人で研究」はイメージ的に結びつきにくいが、実際には先崎九段は後年まで控え室の常連であったわけで、自宅でも研究熱心であったことは間違いない。

* * * * *

「前もって対戦相手と対局日、先手後手が決められている順位戦では、対戦表ができ上がった時からもう勝負が始まっているんですよ」

事前にわかっているので準備ができて良さそうに思えるものの、相手も同じ条件であり、やはり神経がすり減ることは必至だ。

 

棋聖戦第2局ロサンゼルス将棋ツアーこぼれ話

近代将棋1985年9月号、「棋界ミニ情報」より。

 6月28日より7月4日まで棋聖戦観戦を兼ねたロサンゼルス将棋ツアーで2、3の話題をそこでひろってみると、

  • 棋聖戦対局の翌日、米長棋聖は観光で映画等で有名になったビバリーヒルズ、サンタモニカの海岸をぶらり。途中俳優のポール・ニューマンの大邸宅の前で記念写真をパチリ。「どうかね、自宅の前でスナップを一枚という風情に見えるかね、ハッハッハッ」、現在の大活躍を見聞きしているファンにとっては見えなくもないでしょう。

  • ツアー5日目、一行の大半がラスベガスに飛んだその日、朝早く宿泊先のホテルニューオータニのロビーで将棋の対局を始めた元アマ名人の若林さんと広島の有名人高木達夫さん。夕刻にのぞくと早指し戦でまだ対局中。翌日若林さんにたずねると「40番か50番は指したかな」。わざわざロスくんだりまできて将棋三昧でもなかろうにと思いますが、根っから好きなんですネ。

  • ラスベガスではすっかりディーラーにかもにされた森、勝浦の両八段。懲りた(失礼)と思えたのですが、帰りの機中では森安夫妻や同行の阿佐田哲也氏を仲間にいれてブラックジャックをはじめました。一方では、ツアーの何人かが将棋盤をとり出してパチリパチリ。いやあー好きですネ。

* * * * *

森雞二八段(当時)がラスベガスで散々な目に遭った時の、棋聖戦ロサンゼルス将棋ツアー。

森雞二八段はこのツアーの副団長。団長は大山康晴十五世名人。

「ダメです。元棋聖が記録係なんて、絶対ダメです」

屋敷伸之九段が中学時代に出場した「ロスツアー記念将棋大会」

* * * * *

「ポール・ニューマンの大邸宅の前で記念写真をパチリ」

この時は、米長邦雄棋聖(当時)の散歩がてらだったが、調べてみると、「ハリウッドスター豪邸巡り」という現地ツアーがあるようだ。映画のロケ地も含まれているので、映画ファンの方にはかなりインパクトがありそう。

ハリウッドスター豪邸巡り(DREAMS COME TOURS)

* * * * *

広島の高木達夫さんは、私とバトルロイヤル風間さんが2009年の将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞を受賞した『広島の親分』の主人公。

高木さんは、飯干晃一著『仁義なき戦い』に名前が出てくるほどのテキヤの大親分だったが、昭和40年代前半に引退。

組員に公営ギャンブルを含む博打を禁止するほど、博打が嫌いだった。

そういうわけなので、高木さんはラスベガスへは行くはずもなく、大好きな将棋をずっと指していたわけだ。

親分を引退した後の高木さんは、大型アマチュア大会の創設、関西将棋会館建設などの功績で、日本将棋連盟から七段を贈呈されている。

広島の親分

 

「ぎりぎりの終盤で、手洗いに立った森はそのままドアの前で立ちつくしていた。握りしめた左手のおしぼりが、ぶるぶるとふるえていた」

将棋世界1989年1月号、福本和生さんの「検証・素顔の棋士達 森雞二王位の巻」より。

将棋世界1988年9月号グラビアより。撮影は中野英伴さん。

 昭和60年7月、第46期棋聖戦の五番勝負第2局は、ロサンゼルスのホテルニューオータニで行われた。

 米長邦雄棋聖に挑戦者が勝備修八段(現九段)で、米国本土での初の対局とあって将棋連盟は「口ス棋聖戦フェスティバルツアー」を募った。定員60人がたちまち満員となった。このツアーに森雞二八段(現王位・九段)が参加した。

 森の狙いはツアーコースに入っているラスベガスである。口スに到着するやいなや森はラスベガスのカジノへまっしぐら。

 わたしたちは対局をすませて翌朝ホテルを立ってラスベガスに向かった。

 ここからはだれかの創作と思うので、そのつもりでお読みください。

 森は二日間ぶっ通しの激闘で、持参したン百万円の資金がほとんど底をつく状態だった。さすがのギャンブルの鬼も連戦連敗で憔悴の極に達していた。

 そこに大山十五世名人らの一行が到着した。森にとっては救世主とみえたのだろう。大山さんのそばにかけよって「会長、お金を貸してください」。森の切迫した顔をみた大山さんは即座にこう答えた。

「森クン、落ち着きなさい!」

 ここからは眉につばをつけてお読みあれ。

 ”生か死か”といった森の思いつめた顔をみた大山は、ここでドルを渡せば傷はさらに深まると咄嗟に判断、突き離すのが最善策とみての”落ち着きなさい!!”である。脈なし、と思った森は、一行のなかに”かっちゃん”はいないかと捜した。親友の勝浦八段に懇願しようとした。ところが勝浦八段はいない。聞くとツアー連より遅れて来るという。一日でなく一時間千秋の思いとはこのことか。森は親友の到着をじりじりしながら待ちわびていた。

 勝浦九段の証言。

「ギャンブル場に入ると、森さんが歓喜の表情でかけよってきました。持ち金はすっからかん、このままでは無念で日本に帰れない。もう一勝負で必ず挽回するから資金を貸してくれ。戦いすんでラスベガスを出発するとき、手もとに残ったのは、わたしが残していた百ドルだけでした」

 翌朝、早く起きたわたしは、何気なくギャンブル場をのぞいてみた。だれもいないと思ったら、なんと森が一人でカードを配ってもらっていた。一縷の望みに賭けて徹夜で闘い続けていたのだ。

 森のタイトル戦初登場は、昭和52年の第30期棋聖戦であった。

 大山棋聖に挑戦したが、31歳の森はさっそうとしていた。

 このシリーズ、第2局が八戸市の「はちのへ・ハイツ」、第3局が出雲市の「武志屋山荘」と遠距離の対局場であった。飛行機を利用すれば短時間ですむのを、森は断固として「陸路を行きましょう」。

 理由を聞くと「鉄の塊が空中に浮くのがおかしい」である。

 八戸市は上野駅から特急で7時間余、出雲市は東京-岡山間を新幹線、岡山-出雲間は伯備線で8時間。長道中の旅であったが、なつかしい思い出である。

「高校生のころ、オートバイで走っていたらダンプにぶつかって、一瞬、ぼくは空中に舞いあがって…。それが川の土手を転がってケガなしなんですよ」

 列車の旅ではこんな話を聞いていた。

 高知県中村市の出身であるが、森を”土佐っぽ”だなあと思ったのは、出雲市の対局を終えたあと、出雲大社から日御碕の燈台に昇ったときだ。

 7月上旬の暑い日だった。

 森はシャッをぬいで上半身裸のままで、観光客でにぎわう日御碕にやってきた。目ざとく燈台をみつけて、「福本さん、昇ってみましょう」。

 森は灯台内の垂直の鉄梯子をかけ昇るようにして昇っていった。

 わたしは手の汗をぬぐいながら、下をみないようにして鉄梯子にしがみつくようにして昇っていった。

 頂上から見た日本海は雄大であった。

 森は両腕を胸の前でがっしりと組んで空と海がぴたりと合体している水平線のかなたを、佇立したままいつまでも眺め続けていた。強い夏日を受けて、森の上半身から汗が噴きだしていたが、森はあかずに海に魅入っていた。高知の桂浜を想い起こしていたのかー、

 翌年、昭和53年に森は中原誠名人に挑戦した。名人戦史上に残る”森、剃髪の挑戦”の第36期名人戦である。

 中野英件さんが撮った、すばらしい写真集は、異様な対局風景が活写され力感無類である。

「対局の朝、挑戦者が突然、頭を丸めて登場したらたいていの人は驚く。それが前日まで何の変化もなく、明るくふるまっていた森雞二八段だけに、驚きはより大きい。

 対局の朝8時20分に第1局の対局場仙台ホテルに現われた森八段にびっくりした。対局開始5分前、中原名人につづいて森が登場。こんどは私以外の人が驚く番だ。対局室は森の剃髪に一種異様な空気が流れた」(毎日新聞・加古明光記者)

 名人戦開始前の森語録も評判を呼んだ。

「中原将棋は強くない。相手が勝手に転んでるだけだ。こんなやりやすい相手はいない」

 剃髪といい刺激的な発言といい、迫力満点である。

 これほど話題満載の名人戦は珍しい。

 森は一躍スターになったが、将棋というゲームが面白そうだと一般の関心を呼んだのは、森の果敢さの功績であろう。

 さらにこの名人戦は第3局の「銀波荘」対局がテレビで放映された。NHKテレビ「勝負―将棋名人戦より」は、それまでタブー視されていたタイトル戦の対局室に、テレビカメラが入って盤上、対局者の表情をとらえたことで画期的であった。

 これは余談になるが、将棋の普及が遅遅として進まない主因は、将棋が密室ゲームであることだとわたしは思っている。タイトル戦を温泉地やホテルでなく、広いホールでファンの見守る中で公開対局にすれば、将棋ファンは激増するだろう。

 NHKテレビの名人戦放映の視聴率は12%という高率であった。

「空気は汚染され水は濁り、東京は人間の住む所ではない。子供達のためにも大気が澄み水の美しい高知に帰りたい。勝負師の限界を感じたら、郷里で 将棋教室を開いてレッスンプロで後輩を育てたい」

 第40期棋聖戦(昭和57年)で初タイトルの「棋聖位」を獲得したとき、森は「40歳になったら郷里で暮らしたい」と話していた。当時の森は36歳であった。が、40歳で郷里のうまい水を飲む森の人生設計は、ちょっと早すぎたようだ。

 42歳の今年、森は「王位」のタイトルを手中にした。

 王位の挑戦者決定戦、森と森下卓五段の対局は、6月24日に行われた。わたしは観戦記担当だったが、穴熊の森下が巧妙な指し回しで優位に立った。控え室の継ぎ盤を見た中原、米長が”森下よし”だから、挑戦者は森下で決まりかと思っていた。

 午後10時すぎ、森の△5一竜に森下は▲7二歩と打った。次に▲7一飛で△同竜▲同歩成でと金を作って森下の勝勢である。

 ここで森は△6二銀(1図)と打った。

「延長戦にもっていく一手か、フフフ」

と森は不敵な笑いを浮かべていた。

 △6二銀は▲7一飛を防いだだけの手である。駒の効率的な使いかたに腐心するプロのヨミにない手である。

 森は「考えて指したのでなく手が自然にいった」と話していたが、良くも悪くも森将棋の特質を示すものである。

 第40期棋聖戦で、森は二上棋聖に挑戦した。その第1局の芹沢観戦記を紹介する。

「(森の飛行機ぎらいにふれて)本人が云うに今年は飛行機がいけないと占いに出たそうであるが、占いなんぞ信じる将棋指しは真にもって珍なるものである。この飛行機に乗らぬことと、いつぞやの名人戦で突如剃髪して現れたことと何か共通しているような気がする。森には良い意味での”狂気”を感ずる。ことによると筆者らを越えた素晴らしい”感性”があるのかも知れない」のあと、二上優勢で森が▲6九歩(2図)と打った局面で芹沢さんはこう解説する。

「米長が意外な手だと云っているのであるから、と云うことまで考慮してそれぞれ書いたようである。米長は『ハイ、〆切です。当たりは▲6九歩です』誰一人として当たりなし。こんな手、どんな頭で思いつくのであろうか、この手の意は△8八と▲同金△6八飛を防いでいるだけである。

 プロの指し手は一手に最低二つの意味がある。▲6九歩は一つしか意味がない。プロの思いつかぬ手である」。

 対森下戦の△6二銀と、この▲6九歩は共通した感覚だと思う。

 この手は、森でなければ指せない独自の感性である。

「棋聖位」から5年たって森は「王位」に就いた。

 谷川と七番勝負を戦って競り勝ったのは見事である。

「将棋は手数を読めれば強いと云うことではない。読まずに、少ししか読まずにそれが正しいと判断出来る大局観が必要なのである。この大局観は鍛練で得られるのと、本能に近い肌で感ずるような二種類あると思う。森はその両方を得ているようである。得難い才能と思う」(芹沢観戦記から)

 谷川-森の王位戦を、わたしは第2局と最終局の第7局を観戦した。

 第2局に敗れた後の徹夜のマージャン風景も目に残るが、それよりは第7局で勝ちがみえてきたときの、一手指すごとに立ちあがって手洗いに行き、胃液を吐きながら闘い抜いた森の、何かに憑かれたような表情が忘れられない。

 芹沢さんが言う。良い意味での狂気の状態であった。

 ぎりぎりの終盤で、手洗いに立った森はそのままドアの前で立ちつくしていた。握りしめた左手のおしぼりが、ぶるぶるとふるえていた。

 明朗で快活な、ふだんの森からは想像もできない、ぞっとするような勝負師の顔であった。

 ラスベガスのカジノで、ただ一人でカードに挑戦していたとき、日御碕の燈台で日本海をにらんでいたとき、名人戦に剃髪で登場したとき、そして王位戦のこぶしをふるわせていたとき、森は同じ顔であった。

 王位戦最終局の振り駒で、森は記録の高田三段に「天井にとどくぐらい高く振ってよ。うんと高くね」と注文した。先番が握りたかったのだが、堂々と注文するのが森流である。念力を信じているふしがある。

 そういえば、対局中も森からはいろんな発言を聞いた。

 大山棋聖に挑戦したとき、控室に現われた森は「次は妙手を指すからね」と自慢していた。妙手予告というのを初めて聞いた。

 中原棋聖と熱海の「石亭」で対局、中原優勢の局面で森は苦心の一着。中原が指す構えをみせると、森は「切れてくれ」と叫んだ。中原が応手を誤ると切れ筋があるのだが、そんなことは中原はとっくに承知である。だから森の叫びを聞いて中原は「そんな無茶な…」と言って思わず苦笑してしまった。

 王位挑戦権の森下との対局でも、途中で「間違えてくれ!」と言って森下をあきれさせていた。

 森が勝負の世界という魔界に身をゆだねたとき、その将棋に凄味と精彩が加わるような気がする。その境界を踏みこえるためのスプリング・ボードが一連の念力ではないか。

 飛行機に乗らないとき、新幹線でも万一の事故はあるよ、と言ったら、

 「列車事故なら奇蹟的に何人かは助かる。その何人かの一人に、ぼくは入っている」

 10月下旬、東京・日比谷の「松本楼」で、森王位の就位式があった。広い会場が出席者であふれるほど。

 森はニコニコと明るい笑顔。現在、最年長のタイトル保持者である。奥さんや子供さんたちも参加して、なごやかな就位式であった。

「七番まではいかないと思って、オーストラリアに出かけるつもりで予約してましたら、7局までもつれて予約金を損しました」

 うれしさが言わせる冗談であるが、予約金の5万円を損しても王位のタイトルなお余りあるものがある。

 若手の時代の将棋界に、中原が王座に返り咲き、森が王位を奪取して中年パワーの底力を示したの感がある。

 そのまえに30代の田中寅彦棋聖も誕生している。

 その田中が「今は私が最年長タイトル保持者ですが、そのうち私が最年少タイトル保持者になりますよ」と、棋聖になった直後に話していたが、タイトルをめぐる世代のせめぎあいはこれから一段と激化しそうだ。

「よくポカをやるから…。これは大丈夫だろう。うん、うん、大丈夫だ。これを間違えるようでは…」

 王位戦7局目の終盤で、森が▲4三銀と打つ直前のひとりごと。谷川は席をはずしていたが、森はいったん手にした銀を駒台に返して、右手を空中で2、3回強く振った。そして再び銀を手にして、はっしとばかり▲4三銀と打った。

 森の顔は美しく紅潮していた。

 勝負の魔界から、するりと抜けだしていた。

 

将棋世界1988年10月号グラビアより。撮影は中野英伴さん。

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「ここからはだれかの創作と思うので、そのつもりでお読みください」と福本和生さんは書いているが、福本さんがこの当時の棋聖戦担当の産経新聞の記者だったので、本当の話と思って間違いないだろう。

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「プロの指し手は一手に最低二つの意味がある」

これは、とても考えさせられる言葉だ。もちろんプロとは比較にならないが、自分の将棋を振り返り、そのようなことを一度も意識したことがなかったことに気付く。

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「一手指すごとに立ちあがって手洗いに行き、胃液を吐きながら闘い抜いた森の、何かに憑かれたような表情が忘れられない」

谷川浩司八段(当時)が新名人となった1983年名人戦第6局〔加藤一二三名人-谷川浩司八段〕、江國滋さんの観戦記では谷川八段が詰みを発見した瞬間、「ああ、という押し殺したような声とともに、挑戦者が不意に喘ぎはじめた。息苦しそうに顔を左右にはげしく動かし、手さぐりでひろいあげた純白のハンカチを急いで口元に押し当てながら、肩で大きな呼吸をくり返した。どう見ても嘔吐をこらえているとしか思えない苦悶の表情だった」と書かれている。

江國滋さんの観戦記(1)

考えに考え抜いて、光明が見えてきた瞬間に(あるいは非常に安心した瞬間に)、急に吐き気が襲ってくることがある。

森雞二九段が胃液を吐いたのは、同じような状況と考えることができる。

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「切れてくれ」「そんな無茶な…」のやりとりがあったのは、1983年の第41期棋聖戦五番勝負〔中原誠前名人-森雞二棋聖〕第1局でのこと。

森雞二八段(当時)「おいしそうだな、2個は食べられないでしょう」、中原誠棋聖「いや、食べる、食べる」