将棋世界1987年12月号、駒野茂さんの「四段誕生のドラマを これから先が本当の勝負だ!」より。
10月19日。第1回三段リーグの最終戦が、東京将棋会館で行われた。
6月24日の第1局目から約4ヵ月。今ここに、その結果が出ようとしている。
9時に開始された全8局の将棋も、12時を少し回ると5局が終了していた。残っているのは中川-中山戦、先崎-杉本戦、小池-藤原戦。どれも昇級がらみの将棋なので、緊張した面持ちで対局している。(14戦目が終わった時点で、先崎学三段、中川大輔三段が11勝3敗、藤原直哉三段が9勝5敗、第1回なので順位は無い)
この3局の中で一番気になるのは、小池-藤原戦で、藤原が負けるとその瞬間に先崎、中川の昇級が決まる。自分達の将棋に関係なく、だ。
当然気になるだろう。先崎はたまにだが、後ろを振り返って見る(形勢はどうだ)。しかし、やはり自力で決めてやるの気持ちがあるのですぐに自分の盤上に目を戻す。
12時20分。床の間の背にした中山の背中がエビのように曲がり、
「負けました」
中川は自力で昇級を決めた。
(中略)
12時32分。小池-藤原戦は、藤原の玉が小池陣地(三段目)に入っていた。入玉か?と思わせたが、小池が追い戻している。どうも小池三段の勝勢のようだ。
先崎の声がした。肩が下がっているところを見ると負けか。軽いはずの駒を重そうな手つきで持つ、それがやり切れない思いを表していた。
12時34分。藤原が投了した。15秒位であろうか、盤上を凝視しながら藤原の唇が動く。声は出さないがその動きが、(何で…)そう言っているように見えた。
「楽勝かと思うたけど」(藤原)
「えー、ヒドかったですねえ」(小池)
この瞬間、昇段者が決まった。
この小池-藤原の結果が出ると感想戦をしている先崎の声が大きく聞こえて来た。手つきもバネのようにしなやかである。やはり他力とはいえ、昇級したことに変わりはないのだから。
(中略)
●米長宅での祝賀会●
2人の昇級が決まった後、米長宅で祝賀会が開かれることになった(当日)。沼五段、室岡五段、中川四段、先崎四段、伊藤三段とともに、米長宅へと向かった。
着くとすでに米長九段は座しており、
「いよう、まあ座りなさい」
とまねき入れてくれた。その時すでに、先崎昇さん(先崎四段の父)と中川真理子さん(中川四段の姉)がいて、笑顔で昇段者を迎えた。途中から米長九段のファンの方一人と佐瀬八段が加わり、会はいっそう盛り上がった。
誰かが、
「野球の優勝ではないが、昇段者にビールをかけようか」
「そりゃいい。先崎、部屋の中ではまずいから、ちょっと外へ出ろ」
「いや~、やめて下さいよ」と言いながらも、喜びはかくせない。
「いや、まて。ビールではもったいない、あれは飲むものだ。そうだ、同じ泡ということで消化器を使おう」
「そんなもんかけられたら、死んじゃいますよ」
先崎も この時ばかりは逃げの一手であった。祝賀会ならではの光景というべきか。
宴たけなわ。それを静めるようにして、米長九段が―、
「将棋界には昔からしきたりがある。師匠に世話になってもその恩返しはしない。では、どうするか。師匠にするのではなく、弟子のめんどうを見ることが恩返しなのである。だから、二人にのぞむことは早く一人前になって、弟子をとる。それが将棋界への御恩返しなのだ」
早く一人前に、米長九段はその言葉に力を込めていたように思う。二人の新たなる旅立ちへの、はげましの言葉であろう。
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将棋世界1987年12月号、「将棋パトロール」より。
10月19日、「第1回奨励会三段リーグ戦」が終了した。
全16局のリーグ戦、昇段者や戦跡等についての記事は190頁をご覧いただくとして、この欄では、記録面から「三段リーグ」を振り返ってみたい。
☆第1回奨励会三段リーグ戦☆
全136局(不戦局1)
先手78勝(勝率.578)後手57勝
関東奨励会13名 104勝104敗(.500)
関西奨励会 4名 32勝32敗(.500)
※従って、関東vs関西も勝率.500(52局=26勝26敗)だった。※ ※ ※
リーグ全体の特徴としては、やはり四段以上の公式戦同様、先手勝率が、非常に高い数字となっている点が挙げられる。
先手番(各8局)では、17名全員が3勝以上をマークしているが、後手番(各8局)では、2勝以下に終わった者、5名を数えた。
また、後手番で6勝以上を挙げた者が2名いるが、この2名(中川7勝、先崎6勝)が四段昇段を果たしており、”後手番を克服する”ことが、四段への絶対条件と言えそうだ。
ところで、関東vs関西で指す場合はどちらかが(東京または大阪へ)遠征するわけだが、この遠征時の勝率を見てみると、
関東=.472(36局=17勝19敗)
関西=.438(16局=7勝9敗)
合計=.462(52局=24勝28敗)となっており、僅かだが、遠征の影響が、あったようである。
特に、遠征+後手番という条件になると、関東・関西合わせて.346(9勝17敗)という低勝率に終わっていて、”遠征を苦にしないこと”も、リーグ突破の条件として挙げることができるだろう。
尚、四段昇段を決めた中川(13勝3敗)には、自分を除く勝ち越し者6名全員に対する勝ち星が含まれており、また、先崎(12勝4敗)の方は、負け越し者8名に対して、一つも取りこぼし(?)がなかった。
(以下略)
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第1回三段リーグは、全員に順位がついていないので、頭ハネがない。
中川大輔三段が午前中に勝って昇段が1人確定。
残る先崎学三段(11勝3敗)が2連敗して、藤原直哉三段(9勝5敗)が2連勝した場合のみ、昇段決定戦が行われるという図式だ。
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第1期竜王戦も、決勝トーナメントの準決勝が、挑戦者決定三番勝負と同じイメージとなる七番勝負出場者決定三番勝負だった。七番勝負出場者決定三番勝負が2つ行われ、その勝者同士が七番勝負を戦うという方式だった。(最後の十段だった高橋道雄十段は、この七番勝負出場者決定三番勝負からの出場)
第1期というのは、当然といえば当然だが、いつもとは違う意外性がある。
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Wikipediaによると、ビールかけの発祥は、1959年の南海ホークス(現在のソフトバンクホークス)のリーグ優勝時、あるいは日本一になった時という説があり、どちらにしても場所は、南海の定宿であった中野ホテル(現在の中野駅南口、丸井のある場所だったと伝えられている)でのことだったという。
米長邦雄九段邸も中野区だが、中野ホテルのあった場所からはやや遠い。
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「将棋界には昔からしきたりがある。師匠に世話になってもその恩返しはしない。では、どうするか。師匠にするのではなく、弟子のめんどうを見ることが恩返しなのである」
師匠を「先輩棋士」、弟子を「後輩棋士」、世話やめんどうを「世話やご馳走」に置き換えても、将棋界の昔からのしきたりになる。