将棋世界1990年11月号、米長邦雄王将(当時)の第31期王位戦第7局〔佐藤康光五段-谷川浩司王位〕観戦記「驚愕の収束」より。
のっけから恐縮であるが、まず投了図を見て頂きたい。
図は谷川王位が歩の頭、金の利きに銀を打った局面である。
なんという一着か。
どうだろう、読者の皆さん。こんな素晴らしい手が世の中にあるものだろうか。
おそらく、図面を見てもどういう意味か皆目わからない、という人がほとんどではないかと思う。
これは本当に素晴らしい一手であった。
意味は簡単に言えば、逃げ道封鎖である。9七の逃げ道をふさいだのだ。
この銀を▲同金は頭金なので取るなら▲同歩しかない。
▲同歩なら△7九金▲9八玉△8八桂成▲同玉△7八金打▲9八玉△8九金寄とする。ここで受けるとすれば▲9六歩か▲7七銀くらいしかないが、いずれも△7九角成で必至となる。
取る手がダメなら図で▲7八玉はどうか。これも△6八金▲同馬△同角成▲同竜△8八銀成▲7七玉△6八桂成となって、駒を全部取られてしまう。攻防ともに見込みない。やはり試合終了である。
で、1分将棋の佐藤君はどうしたかというと投了したのである。
これもまた意外な気がするが、しかしここで投げたというのもまた面白い。
一言で言うなら「いと、おかし」といったところであろう。
投了図に至るまでの寄せも全く見事であった。見事という言葉では言い尽くせない程の収束だったのである。
(中略)
今月は私の自戦記を休みにして決着の付いた王位戦の最終局を解説したい。
名人を取られた後、復調著しく日の出の勢いの谷川浩司。チャイルドブランドの中にあって、羽生、屋敷に遜色のない第三の星、佐藤康光。
この二人がぶつかるということで、今回の王位戦はプロアマを問わず、皆が注目するシリーズとなった。
ここまで期待にたがわぬ激闘を繰り返し、結局3対3となり最終局を迎えたわけである。
(中略)
第7局は1日目から駆けつけるつもりでいたのだが、あいにく大阪での対局があり、2日目の早朝、9時前に私は対局場の陣屋に到着した。
(中略)
控え室には午前11時、かねて示し合わせておった通り、精鋭がゾロゾロと集まって来た。
師範格に青野照市、勝率第1位の丸山忠久、真面目人間の中川大輔、紅一点清水市代、佐世保の天才深浦康市である。
昼は皆でカレーライスをごちそうになった。
私は2日目の昼休みだから、当然対局者は自室で食事だろうと思っていたのだが、なんとオープンシャツに着替えた谷川王位がフラリと現れた。
最終局の上に局勢は谷川がやや不利かと思われるのになんという屈託の無さか。
どうもこの将棋は谷川王位が相当に伸びのある指し口を見せるのではないか、という気がしたものだった。
谷川王位が立ち去るや直ちにまた将棋の研究である。
まず丸山をつかまえて現局面から3局。この早稲田の学生さんにこっぴどい目に遭った。続いて深浦にも3局。これもひどい目に遭わされた。次に弟子の中川大輔。私が待ったをさせてもらってようやく1番勝った。
とにかく当たるを幸い、次から次へと指してみたけれども、手応えとしては佐藤やや優勢という感じであった。
(中略)
午後2時ころに羽生竜王が現れた。
「寝坊をしたのかい」と私が聞くと、「ハー」という答えであった。昨日は対局だったらしい。
局面は4図となっている。
この△8四桂は油断ならない一手だ。
なぜかというと、次に△9六桂と香を取って来るとは限らないからだ。この手の真意は△5七桂成▲同金△7六桂にあるのである。
4図ではどちらに跳ねて来られても大丈夫なように▲9八玉と寄っておく手が”玉の早逃げ八手の得あり”の好手であり、なおかつ米長玉の真髄である。
私はこの手が最善手だと思った。
羽生先生に意見を求めると、彼もそれを肯定した。
「しかし、佐藤康光はこの手を指さないのではないか」と私が言うと羽生竜王は「いや指します」と断言した。
それならということで、お互いに1,000円ずつを机の上に置いたのだが(羽生君には無理矢理置かせた)、これはすぐに取られてしまった。
佐藤君はやはり▲9八玉と寄った。
強い!!
(中略)
以下10手程進んで6図は△8四桂と打った局面である。
6図では▲7五馬がうまそうに思えるが、これは△6二香と先手で飛成を防がれ▲6三歩に△9六桂と銀を取られてまずい。
そこで▲7三馬と突入したのだが、この▲7三馬の瞬間、次の一手が飛び出すのである。
おわかりになるだろうか。
△9五飛(7図)。
なんという素晴らしい一着!!
これには驚いた。
こんなに驚く手を見たのは本当に久し振りである。
おそらく対局中の佐藤君も同じ気持ちだったのではなかろうか。
この△9五飛によって4一に打つ一歩を補充し、金銀を手駒に加え一気に寄せ切ってしまおうというわけである。
まさに光速の寄せだ。
以下必然の手順で8図となる。
後手の持駒は角金銀香。
はたして佐藤陣が寄るや否や。非常に難しい局面と見えたのだったが……。
8図から△9七銀▲7七銀△5七角と進んで9図。
△5七角も素晴らしい。
この手には▲6八歩で受かるように見えるが、それは△同角成なのである。
△同角成を▲同銀、▲同金は頭金までなので▲同竜よりないが、これは以下△同桂成▲同金△6五香で一手一手だ。
となると9図での▲9八歩もこれよりない。以下、△8八香▲同銀△同銀成▲同金と進んで10図。はたして金銀だけで寄るものなのだろうか。
読者の皆さんも考えてみてもらいたい。
ところが、10図で次の一手を指すと冒頭の投了図になるのである。
(中略)
振り返ってみると、本局は佐藤君としても十分に自分の将棋が指せたはずである。しかし、終盤の20手程は谷川王位に何かが乗り移ったとしか思えない。
それほどの棋神にも優る指しっぷりであった。完全に谷川は復調した。
さあ、この後の王座戦、竜王戦が面白い。名人に復帰した中原と10代の星・羽生が相手である。しかもこの両者には全日本プロ、名人戦で叩かれている。
谷川王位としても春先に泣かされた相手だ。その両者と同時に秋の陣で戦うのである。
今年は谷川とフセインを中心に地球が回っている。
今回の七番勝負は、佐藤君がその谷川を内容的には凌いでいた。必ずや近いうちにタイトルを獲得するに違いない。
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「続いて深浦にも3局。これもひどい目に遭わされた」
この深浦とは深浦康市三段(当時)のこと。
奨励会員の時から米長邦雄王将(当時)に精鋭と認められていたわけで、本当に凄いことだと思う。
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「それならということで、お互いに1,000円ずつを机の上に置いたのだが(羽生君には無理矢理置かせた)、これはすぐに取られてしまった」
このような、次に指す一手の賭けがあるとすれば、お勧めは絶対にできないが、賭けの世界が無限に広がりそうだ。
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△9五飛(7図)からはじまる谷川浩司王位(当時)の寄せは、まさしく光速の寄せの代表例の一つだろう。
8図など、9五の馬と6一の竜が自陣に利いていて、とても後手から寄せがあるとは思えない。
ところが、8図から9手で終局となる。
△9七銀(投了図)は有名な手となっている。
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「さあ、この後の王座戦、竜王戦が面白い」
谷川王位は王座、竜王とも奪取することになる。
「今年は谷川とフセインを中心に地球が回っている」
は、まだこの2つのタイトルを奪取する前に書かれたことなので、いかに谷川王位の勢いが凄かったかがわかる。
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ちなみに、この対局の1ヵ月半前にイラクによるクウェート侵攻が始まって、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)は国際世論の非難を受けていた。
アメリカ軍を中心とする多国籍軍が、対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始するのは、この翌年の1月17日から。