大山康晴十五世名人「さようなら、升田さん」

升田幸三実力制第四代名人は、1991年4月5日に亡くなった(享年73歳)。

将棋世界1991年6月号、大山康晴十五世名人の「さようなら、升田さん」より。大山十五世名人による追悼文。

 升田さんとの出会いは、私が木見先生のところに弟子入りしたその日、昭和10年3月14日のことです。試験将棋ということで、角落ちで指してもらったのが、一番最初でした。結果は、当然下手のわたしの負け。

 これは余談ですが、あとから木見先生に「今日はどうだった?」と、その将棋の結果を訊かれ、「本に書いてあった通りに指したのに負けました」と答えると、「本に書いてある通りには、なかなかうまくいかないものだ。とにかく頑張りなさい」と言われたことが、強く印象に残っています。

 あれから56年……思えば長い長い付き合いでした。いろんなことは二人の間にはありましたが、懐かしい思い出がたくさんあります。

 入門して3ヵ月ほどたった頃、大阪で弁護士をされていた岸本晋亮さんという愛棋家のところへ、升田さんに連れていってもらいました。岸本さんは岡山県出身、私と同郷ということで、それなら一度―ということだったようです。

 大阪の街へ出たのは、この時が初めて。升田さんにいろいろな所を案内してもらいました。またこの折、岸本さんから3円頂きましたが、これが内弟子に入って最初の収入でもありました。むろんこのお金は、木見先生に差し出しました。

 当時の木見道場(といっても先生の自宅の2階)には、すでに大野さん(源一九段)、角田さん(三男八段)、そして升田さんの三人がいました。

 家の中の(木見家の)仕事や、事務的なことは角田さんが、外へ出ての稽古は大野さん、内での(道場での)稽古は升田さん、とそれぞれに分担していたようですが、升田さんの稽古は、アマチュア相手といえども手厳しかったようです。お世辞で負ける、などということは一切なかったようで、「升田さんは強いなあ」「一番も勝たしてくれないなあ」などと、感心したような、恨めしいような声を、よく聞いたものです。

 それだけ升田さんには常に向上心があり、「勝負は勝たねばならぬ」という強い気持ちがあった、ということでしょう。

 その木見家の2階、道場で、5年間、私達は寝起きを共にしたのです。

 その間、将棋は、私の方から積極的にお願いして、升田さんによく教えてもらったりしましたが、囲碁の方は、逆に升田さんの方から積極的に教えてくれたものです。

 たしか入門して2年、数え年の15歳の時に、初めて升田さんに碁を教えてもらいました。一番最初は、何と25目置かされて、全部石を取られてしまった思い出があります。それでも、1年くらいのうちには、先で戦えるくらいに、私の腕も上がりました。

 ちょうどその頃、毎日新聞社で親善囲碁会が催され、私と升田さんも参加したことがありました。

 二人とも成績は4勝1敗。そこで賞品として日本酒「菊正宗」特級一升ビン、1本ずつもらい、意気揚々として帰ってきたものです。

 私はその頃はまだ未成年でしたので、升田さんに差し上げようとしたところ、「オレも今から冷や酒を飲んでもしようがないからな、よし、オレに任せておけ。売ってきてやる」と升田さん。

 当時、特級酒一升は約1円、升田さんのお蔭で、こちらも配当金を受け取ることができました。

 ところが、お酒、特に「菊正宗」は、木見先生の大好物。先生の奥さんは当然、二人がお酒を持って帰ってきたのを知っていましたから、これでお酒を買っておく必要なし、と思われたようです。

 そして二人に「あのお酒、お前達どうした?」

「売ってきました」

「先生にこれだけお世話になっておきながら、お前達には、感謝しようという気持ちもないのか」と、当然の如く、二人そろって叱られてしまいました。

 私の入門した頃の升田さんは、何故か皆から「オッサン、オッサン」と呼ばれていました。本人も自分で「オッサンは」などと言ってたくらいです。若い時から、そんな風貌があったようで、独特の雰囲気をかもし出していたのでしょう。

 升田さんと私は宿命のライバルなどとよく言われましたが、私が毎日新聞の、升田さんが朝日新聞の、それぞれ嘱託になったということなどもあってか、これはむしろ周囲の人達が作り上げたような関係で、私自身としては、常に「兄弟子という升田さん」「将棋がもの凄く強い升田さん」といった存在でした。

 昭和17年、名人戦の挑戦者予備手合いで、当時五段の私は五、六段戦で優勝。七段戦も突破し、八段戦でも二番勝ち進みました。この時、広島で軍隊生活を送っていた升田さんからハガキが届きました。「斎藤八段をねじ伏せたのは、天晴れである」文面はこの一言だけ。他には何にも書かれてなかったのですが、「ああ、弟弟子のことを気にかけてくれていたのだ」と、非常に嬉しかった思い出があります。

 三冠王になった頃の升田さんは本当に強かった。世間では「受けの大山」「攻めの升田」となっていますが、升田さんが本当の力を発揮して、強いのは、じっと我慢する時、受ける時で、「受けの升田」だと、私は感じていましたし、升田さん自身もそう語っていたものです。

 最後に戦った第30期の名人戦。升田式早石田は、「新手一生」をモットーとしていた升田さんらしい豪放な指し方でした。「こんな手で負かされるもんか」と最初は軽視していたのですが、なかなかどうして。

 最終的にはやや無理筋の作戦とは思いますが、升田さんならではだったと、今では懐かしく思います。

 二人だけでじっくり話し合う機会を得たのは、一昨年の棋士総会の時。今後の将棋界について20分ほど、しみじみと話し合ったのですが、それが最後となってしまいました。

 3月1日の全日本プロトーナメント決勝で、元気そうな姿を新聞等で見て、安心していたのですが……。

 非常に残念で寂しい思いです。ご冥福を祈ります。

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写真は、将棋世界の同じ号より。

1971年、第30期名人戦第6局。撮影は清水孝晏さん。

1971年名人戦第7局。

非常に珍しい、一緒に昼食を食べている写真。

1957年名人戦第2局。

1989年2月24日、米長邦雄九段邸で。撮影は中野英伴さん。

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岸本晋亮弁護士から小遣いをもらった時のこと、日本酒をお金に換えた時のことなど、よく知られるドラマチックな話題ではなく、このような二人しか知らない出来事が書かれているところに、兄弟子を思う気持ちが現れている。

二人は仲が悪いと報じられる時もあったが、本質的な部分では昔から何も変わっていなかったのだと思う。

大山康晴十五世名人は、升田実力制第四代名人に呼ばれるように、翌年の7月26日に亡くなっている。

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晩年の二人の対局の模様

ゼニになる将棋(前編)

ゼニになる将棋(中編)

ゼニになる将棋(後編)