「ひとしきり飲食して席がざわついている時、谷川はビールびんを片手に、すっと羽生のそばへ寄った」

将棋マガジン1993年3月号、読売新聞の山田史生さんの「第5期竜王戦終了・シリーズを振り返って 二人の戦いの始まり」より。

竜王戦第7局。将棋マガジン同じ号より、撮影は中野英伴さん。

 第5期竜王戦七番勝負は、三冠王(竜王、棋聖、王将)の谷川浩司と二冠王(王座、棋王)の羽生善治の対決。中原誠が名人の孤塁を守っているとはいうものの、文字通り現在の将棋界の実力ナンバーワンを争う、天下分け目の戦いであったといっても過言ではないだろう。そしてそのナンバーワンの座は、ついに22歳の羽生が獲得することとなった。

 それにしても凄い勝負だった。最終局、谷川、羽生の両天才が、脳髄を絞りに絞り、必死で戦っている。控え室では10人ものプロ棋士が集まって検討しているが、2日目の夕方近くになってもまだ結論が出ないほどの大熱戦。

 こうなると勝負の結果はもうクジ引きみたいなもので、人為的なものでは決してない。終盤の、ある局面で勝ちが生じているのかいないのか、それはほんのちょっとした神様のいたずらなのに違いない。そんなごくわずかな運命の差で、第一人者の地位が決められてしまっていいものなのだろうか。

 最終局の熱戦を見ていると、ロンドンまで行ってきたこれまでの7局(千日手局を含め)は何だったのか、という気にさえさせられた。結果的に羽生が勝ったわけだが、二人に力の差があったとはとてもいえず、ツキの差であったという方が正しい表現なのに違いない。

(中略)

 さて年を越しての最終第7局は谷川の地元大阪にて。谷川が棋聖戦、王将戦とタイトル防衛戦を控えているため、もし最終局が持将棋にでもなったら、指し直す日程がとれない。このため対局規定を特別に変更、千日手でも持将棋でも、その場で指し直し、必ず決着をつける、という取り決めを行った。

 最終局は先手番を得た羽生が趣向を凝らした。角換わり腰掛け銀から▲2六角打ち。終局後のインタビューでの羽生の弁だが「この七番勝負は少し消極的だったので、反省して最後だけは勝敗はともかく、積極的に出ようと趣向を凝らしてみました」ということだった。

 この趣向は必ずしも成功とはいえず、冒頭に記したように終盤ギリギリまで形勢不明の局面が続いた。しかし風邪も治った羽生は気合も十分、終盤でも読み負けすることなく勝ちを収めた。

 終局後、羽生は「今回は挑戦者だったので気楽に戦えたのがよかったのでしょう。三冠王になったなんて信じられません」とやや上気して語り、谷川は「全般的には序盤はうまくいったと思いますが、終盤につまらないミスが多く出ました」と言葉少なだが、はっきりした口調で語った。

 改めて全7局を振り返ると、谷川は第4局の逆転負けが大きく響いていることがわかるが、さらに第5局、第7局でも、終盤のまだ難しい局面なのに、魅入られるかのように単調な、粘りのない指し手を選び、羽生に乗じられたという感が強い。

 どんな悪い局面でも、常に勝負手を狙って指してくる羽生の底力があったことはいうまでもないが、今シリーズは谷川やや変調だったといわざるをえない。

 前期は好調で四冠王、一時は七冠王も夢ではないと思われ、自分でもそれを目標にすると宣言したほどの谷川ではあったが、その反動と、対局過多による影響が今期になって現れてきたのだろうか。

 第7局終局後、恒例によって打ち上げの宴が開かれた。敗者にとっては出たくもない席だが、谷川はごく普通の表情で列席した。

 ひとしきり飲食して席がざわついている時、谷川はビールびんを片手に、すっと羽生のそばへ寄った。そして「おめでとう」といって羽生のグラスにビールをついだ。

 羽生も素直に「ありがとうございます」と答え、深々と頭を下げた。

 いい光景だったと思う。対局中はもちろん、盤を離れている時も、直接にはいっさい会話を交わさなかった両者だが、そこには3ヵ月もの間、大勝負を戦いあった、二人だけに通じる心の交流があるのだろう。

 また谷川としては「このまま竜王位をずっと預けっぱなしにしておくわけではありませんよ。今度は私の方がついでもらいますからね」という気持ちでもあったろう。

 さて三冠と二冠の立場が入れ替わり、棋界の頂点に立った羽生だが、評価される本当の強さは”一時的なものより、どれだけ維持できるか”にあるといわれる。また棋士の力のピークは20代前半にあると最近よくいわれるようになった。

 だから、羽生は既に将棋史に残る一流棋士であることは確定しているが、さらに成長して超一流になるのか、単なる一流で終わるのかは、これからの実績しだいであろう。

(以下略)

竜王戦第7局。将棋マガジン同じ号より、撮影は中野英伴さん。

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「こうなると勝負の結果はもうクジ引きみたいなもので、人為的なものでは決してない。終盤の、ある局面で勝ちが生じているのかいないのか、それはほんのちょっとした神様のいたずらなのに違いない。そんなごくわずかな運命の差で、第一人者の地位が決められてしまっていいものなのだろうか」

竜王戦の担当者がこのように感じるほど、激烈で深淵な戦いだったということになる。

将棋の面白さが凝縮されていると言っても良いのだろう。

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「ひとしきり飲食して席がざわついている時、谷川はビールびんを片手に、すっと羽生のそばへ寄った。そして『おめでとう』といって羽生のグラスにビールをついだ」

なかなか見ることのできない光景だ。

2003年の王座戦五番勝負が終わった後の打ち上げでも、似たようなことがあった。

渡辺明五段(当時)「羽生さんにビールをついできたいのですが……」

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「いい光景だったと思う。対局中はもちろん、盤を離れている時も、直接にはいっさい会話を交わさなかった両者だが、そこには3ヵ月もの間、大勝負を戦いあった、二人だけに通じる心の交流があるのだろう」

やはり、根底にはこのような思いがあったのだと思う。

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「だから、羽生は既に将棋史に残る一流棋士であることは確定しているが、さらに成長して超一流になるのか、単なる一流で終わるのかは、これからの実績しだいであろう」

この後、羽生善治三冠(当時)は、この言葉に十分過ぎるほど応えた活躍をすることになる。