大道詰将棋屋

将棋世界1984年11月号、野口益雄さんの「詰将棋サロン解答」より。

 大道詰将棋屋は今いるのだろうか。近年さっぱり見かけない。

 双玉タイプの大道将棋が発明されて、いまから2、30年前には、全国の大道棋屋がさかんに新作を用いて商売していた記憶があるが……。そして双玉問題の名作が幾つか生まれて、詰将棋史に残されてはいるが……。

 悪い大道棋屋が恐喝まがい、ひったくりまがいの商売をして、新聞ダネになることがある。それは大道棋屋専門のテキヤでなく、俄大道棋屋だったようだ。

 昔は、雨さえ降らなければ人通りの多い所にまともな店をひらいて大道棋だけで生計をたてていたテキヤがいた。しかし日本人の生活水準が上がって、1日1万円を必要とする現在、大道棋の店を出しても、それだけの金額をかせぎだすことは困難であろう。

 おまけに将棋の知識が浸透して、「大道棋は簡単に詰むものじゃない」と今は多くの将棋ファンが知っているから、手を出す客がめったにいない。

 人力車や活動弁士や定斎屋や鋳掛け屋や早朝の納豆売りや……そういったもののあとを大道棋屋もたぶん追っているのであろう。余談だが私の生家は空壜商で、私も昭和23年から3、4年その仕事をやっていたが、最近聞いてみると衰退いちじるしいという。

(以下略)

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私が大道詰将棋を最後に見たのは(生まれて初めて見たのでもあるが)1996年のことだったと思う。

御徒町にほど近い上野の路上。

何人かが見ていたので私も覗いてみると、一人のお客さんが考えていた。詰将棋が苦手な私でも考えてみたくなるような取っ付きやすく見える問題だった。

そのお客さんは数手で沈没。

お客さんの3手目で違う手だったらどうなっていたのだろう、と思いながら盤面を見ていると、店主が「お客さんもいかがですか。お客さんなら解けそうだなあ」と言いながら私に銀の駒を渡してきた。

銀の渡し方が驚くほど自然で、気がついたら私の手のひらに銀が乗っていた。

たしかに1手目に銀を打ちたくなるような問題図だ。

幸いなことに、一緒にいたプロ棋士が「これから急いで行かなければならないところがあるので、すみません」と私の手のひらの駒を店主に戻して、「さあ、急ぎましょう」と言ってくれたので、その場から逃れることができた。

私を救ってくれた棋士によると、その詰将棋は31手詰の難問だったらしい。

大道詰将棋は手出し無用と心得ていた私だが、そのような私でさえ、少しやってみようかないう気持ちにもなりかけた絶妙の銀握らせ。

あの、銀を手のひらに乗せる絶妙の呼吸は、本当に名人芸だと思った。

もちろん、最初のお客さんはサクラだろう。見ていた人の何人かも、あるいは全員がサクラだったのかもしれない。

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大道詰将棋で一手指すとどれくらいの値段なのか、解いたらどのような賞品が出るのか、わからないことが多いが、将棋を好きな人だと、はじめは1,000円か2,000円を授業料のつもりで、と思っていても、途中からアツくなり、もっともっとお金を投入してしまう危険性がある。

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とはいえ、大道詰将棋も適正な値段なら法律には違反していない商売。

しかし、終戦直後は詰まない詰将棋を出題していた大道詰将棋屋もあったらしい。

私が書いた『広島の親分』の主人公であり、元・広島のテキヤの大親分だった高木達夫さんは、次のように語っていた。

「わしは、大道詰将棋からこの道に入ったんじゃが、その大道詰将棋はインチキだった。こんなに将棋を冒涜することはないと思い、わしのところでは大道詰将棋を禁じた。今でも(中国高木会の人達に対して)公営ギャンブルを含む博打は禁止しとる」

1950年代以降、広島県では大道詰将棋屋はほとんど存在しなかったと考えられる。

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定斎屋は薬の行商人。

鋳掛け屋は鍋や釜などの修理。

活動弁士は、人数は激減したものの、現在でも無声映画の上映などでは不可欠の存在であり、澤登翠さんが第一人者。

活動弁士の山崎バニラさんも将棋世界に登場したことがある。

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大道詰将棋の左配置

昭和6年の神楽坂の風景と将棋