行方尚史四段(当時)「石にかじりつき血を吐いても勝ちたかったのが本局である」

近代将棋1993年11月号、行方尚史四段(当時)の第13回三段リーグ12回戦〔対 松本佳介三段〕自戦記「一分将棋を戦う」より。

将棋マガジン1993年11月号より。

 1986年10月、僕は奨励会に入会した。東京で一人暮らしを始めて半年後のことだ。

 不覚にもその時、その後の暗い奨励会生活は、想像もできなかった。

 それから何度も挫折的感情にとらわれた。一人淋しく部屋でボンヤリしていると、悪い予感が襲ってくる。このまま、朽ち果てるかもしれないと言う恐怖感だった。沈んで重たい東京の空気を吸いこみながら、耐えられないと思った。

 長く奨励会員でいることは、ひどい焦燥と無力感を生む。たえきれない。

1993年7月20日
第13回三段リーグ 12回戦
持時間各90分 切れたら1手1分
▲ 松本佳介(8勝2敗)
△ 行方尚史(8勝2敗)

▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲6六歩△6二銀▲5六歩△5四歩▲4八銀△4二銀▲5八金右△3二金▲6七金△4一玉▲7八金△5二金▲6九玉△4四歩▲7七銀△3三銀▲7九角△3一角▲3六歩△4三金右▲3七銀△8五歩▲6八角△7四歩▲7九玉△6四歩▲2六歩△6三銀▲2五歩△7三桂▲3五歩△同歩▲同角(1図)

地獄の三段リーグ

 なんとか三段まで昇ったが、三段リーグ1期目は散々たるものだった。14回戦まで3勝11敗、頭がおかしくなった。どうあがいても勝てる気がせず(振り飛車もやった)、気づけば降級点がチラつく状況まで、追いこまれた。

 その場は持ちこたえたが、最終的に6勝12敗、惨めだった。反省点ばかり多かった。冷静に見て、2年は駄目だとチラと思った。ただ、自分の弱さを認めたうえで、尚且つ負けてはいけないと言い聞かした。

 そして、2期目は一変した。序盤の連敗が響き、昇級争いには加われなかったが、中盤から勢いに乗り13勝5敗、一応レースに参加することが出来た。

 このころ、兄弟子の中田功さんも勝ちまくり、奇跡的にC1昇級を決めた。僕は師匠の御加護を信じるようになった。師匠は偉大だった。不肖の弟子が恩返しするには、立派な人間になることと将棋を勝ちまくるしかない。

 3期目に入った。今回は、死んでも上がるつもりだった。

 で、石にかじりつき血を吐いても勝ちたかったのが本局である。

 8勝2敗同士、自分でも天王山だと思っていた。こんな大きい勝負を戦える喜びを、全身で感じ、呼吸の度に血が駆けめぐった。

(中略)

作戦負け

 松本さんとは、級で低迷していた頃の付き合いだ。趣味が似通っていて、バカな話でよく盛り上がった。仲々味のある先輩だ。

 その松本さんと大勝負を戦うことになった。内心、穏やかではなかったが仕方がない。負けると地獄が口を開けて待っているのだ。勝負の世界、最後は血も涙もない。

 戦いは作戦負けを自認していた僕がやや強引に仕掛けたところから始まった。

 意表を突かれたのか、松本さんは長考に入った。とりあえずジリ貧だけは免れたと思った。あとは、力と力の勝負だ。

 そして、△7四銀(途中1図)とスムーズに進出したところでは、彼我の右銀を比較して、良くなったのではと思った。

 敵の右銀は明らかに取り残されている。急な戦いになれば必ずその差が出るはずだ。

 しかし、ここからの松本さんの指し回しが冴えた。▲7四歩(途中2図)が絶妙の垂らしだ。

 △7四同銀はひどい利かされだが、△8三飛と軽く受けるのでは第2弾▲6三歩がひどすぎる。

 再び松本さんのペースとなった。気持ち良く焦点の歩を利かされて2図、次の一手は僕の視界になく、眩暈がした。

2図以下の指し手
▲9二馬△6三飛▲6九香△6六歩▲同香△同銀▲7四馬(途中3図)△7七銀成▲同桂△8七歩▲同金△6四金(途中4図)▲6三馬△同金▲3四歩△同金直▲2三歩△同銀▲4一飛△3二玉▲6一飛成△5三金左▲同歩成△同金▲5四歩△4三角▲7二竜△5二金(3図)

真実の瞬間

 馬を縦に引かれるのを、まるで見落としていた。本譜の進行は必然だが、▲7四馬(途中3図)と引かれた形がひどすぎる。気力が萎えた。すっかり参ってしまったが、ただ、投げる訳にはいかない。

 全然だめだが、なるようになれとばかりに△6四金(途中4図)と馬をしかりつけた。

 ここで松本さんは、簡単な勝ちを逃した。▲6八飛と遊び飛車を活用すれば良かったのだ。以下△6五歩▲同飛△同金▲6三馬△5二歩▲4一銀△5一香▲6二飛で受けなしだった。

 ▲6三馬は殆どノータイムだった。救われた。松本さんは、▲2三歩で▲4一銀で受けなしと勘違いしていたようだ。▲4一銀なら△5四金左で抜けている。

 まだ悪いが、▲5四歩から松本さんも1分将棋に入り、かなり望みが出てきた。

 僕は、1分将棋が大好きだ。特に緊張感が凝縮されたような三段リーグの対局室で、1分将棋を戦う興奮は他の何にも替えられない。たぶん、あの一時のために僕は生きているのだ。

 △4三角と勝負手を放った。そして、サッと△5二金と引いた。体全体に緊張がみなぎる。真実の瞬間が迫る。

3図以下の指し手
▲6三銀△5一歩▲6五桂△9五桂▲7七歩△6二歩▲5二銀成△同歩▲6二竜△6四銀▲9六歩△8七桂成▲同玉△6五銀▲5五桂△5四角▲5二竜△4二香▲4三金△2二玉▲4二金△6六銀▲7六香△同歩▲3一金△3二歩▲2一金△同玉▲6一竜△3一香▲6六竜△6五金▲2二歩△同玉▲6五竜△同角▲4二角△7七歩成▲同玉△5七飛(投了図)  
まで、140手で行方三段の勝ち。

ゆび運で勝つ

 相当危ないが、▲5三金と打たれたらまだ負けだった。受ける訳に行かないので、△同角▲同歩成△8七角成と詰ましに行くしかないが、以下▲同玉△7六銀に▲8八玉でどうやっても詰まない。

 しかし、一目詰み形だし秒読みの最中では、角筋を未然に防ぐ▲6三銀を選びたくなるのかも知れない。

 指運勝負になった。▲9六歩で▲9六金なら負けだったが、流れは僕に傾いていて、正着が指せるようなムードではなくなっていた。

 △6六銀が決め手となった。

 ギリギリの勝負だったが、決して満足できる内容ではなかった。自分自身にかなり不満を覚えてしまうが、今の僕レベルでは、結果がすべてなのかも知れない。この1勝は大きかった。

 こうして僕は四段になってしまった。呆れるほど弱いが、とりあえずは好きな将棋でメシが食えるのだ。嬉しい。夢は果てしなく広がる。ただ、あと大駒一枚は強くならないとダメだが……。

 最後に、苦労した時期に御世話になった方々に、心から感謝します。近々師匠のお墓まいりに行ってこようと思っている。

* * * * *

「それから何度も挫折的感情にとらわれた。一人淋しく部屋でボンヤリしていると、悪い予感が襲ってくる。このまま、朽ち果てるかもしれないと言う恐怖感だった。沈んで重たい東京の空気を吸いこみながら、耐えられないと思った。長く奨励会員でいることは、ひどい焦燥と無力感を生む。たえきれない」

行方尚史四段(当時)は、三段リーグ・ラス前に四段昇段を決め、15勝3敗の1位で三段リーグを終えている。(同時昇段は岡崎洋三段)

青森県弘前市から上京して、中学生の時から一人暮らし。

様々な苦難を乗り越えての昇段だった。

行方尚史三段(当時)「もし奨励会を退会するようなことになれば、ぼくは死ぬ以外に無い」

行方尚史四段(当時)「四段昇段の記 血を吐くまで」

* * * * *

「このころ、兄弟子の中田功さんも勝ちまくり、奇跡的にC1昇級を決めた。僕は師匠の御加護を信じるようになった。師匠は偉大だった。不肖の弟子が恩返しするには、立派な人間になることと将棋を勝ちまくるしかない」

師匠の大山康晴十五世名人が亡くなったのが1992年7月、兄弟子の中田功五段(当時)は1993年3月に順位戦C級1組への昇級を決めている。

中田功五段、行方四段とも、師匠が亡くなって奮起し、師匠への恩返しを果たした形だ。

中田功五段(当時)「御恩に報います」

* * * * *

「石にかじりつき血を吐いても勝ちたかったのが本局である」

勝ちたい気持ちを、これほど短い文章でこれほど強く感じさせるのは凄いと思う。

それほど気持ちがこもっているということになる。

* * * * *

「気力が萎えた。すっかり参ってしまったが、ただ、投げる訳にはいかない」

▲7四馬(途中3図)とされた局面での心情が、痛いほどわかる。

ここでくじけないのが、行方流の粘り。

この粘りが、▲6三馬、▲6三銀の相手の疑問手を呼び込んだ。

* * * * *

「僕は、1分将棋が大好きだ。特に緊張感が凝縮されたような三段リーグの対局室で、1分将棋を戦う興奮は他の何にも替えられない。たぶん、あの一時のために僕は生きているのだ」

三段リーグでの1分将棋が大好きという三段は、どれほどの割合でいるのだろう。

まさに、勝負師の真髄。

* * * * *

行方三段が四段に昇段して、各誌がすぐに、行方四段をいろいろな形で取り上げている。

取材当日にVSの相手だった木村一基三段(当時)と一緒に取材を受けている記事もある。

行方尚史四段(当時)と木村一基三段(当時)