「打ち上げのあと銀波荘の社長夫妻、羽生、三浦でマージャンとなった」

将棋マガジン1995年9月号、産経新聞の福本和生さんの第66期棋聖戦五番勝負第3局盤側記「盛況だった公開対局」より。

ハプニング

「中原永世棋聖が急病で天童に行けなくなりました」

 7日の羽田空港で、将棋連盟の小泉さんから、中原さん急病を聞いたときはびっくりした。

 天童市「天童ホテル」での第3局は、棋聖戦の一期制を記念して、さまざまなイベントが組まれていた。

 中原さんには特別立会人をお願いしていた。公務最優先で、これまで一度として欠席のなかった中原さんが、天童に行けないというのはよほどのことである。心配のまま飛行機に乗り込んだ。

 山形空港から「天童ホテル」に向かう車のなかで、小泉さんと相談して中原さんのピンチヒッターを二上会長に頼んでみることにした。

 ありがたいことに二上会長は「行きましょう」と、無理なお願いをOKしてもらって感謝である。

前夜祭

「天童ホテル」は5月末に新装オープンした。そのお祝いに棋聖戦第3局を開催することになった。

 棋聖戦では久しぶりに公開対局を行い、ファンに喜んでもらうことにした。そのため対局日を7月8日の土曜日に設営した。サクランボを賞味してもらって、将棋を楽しむという欲ばりな企画である。

 7日午後6時から前夜祭。

 羽生善治棋聖、挑戦者の三浦弘行五段、立会人の田丸昇、塚田泰明の両八段、天童市の鈴木市長らが出席、1万円の会費を払って参加したファンもいた。商工会議所の亀井専務の司会で、鈴木市長の歓迎の挨拶、産経新聞東京本社の木立編集総務担当からお礼があり、両対局者に花束贈呈。

前夜祭。近代将棋1995年9月号より、撮影は炬口勝弘さん。

前夜祭。近代将棋1995年9月号より、撮影は炬口勝弘さん。

 そして羽生棋聖、三浦五段からの決意表明があった。

 談笑が続くうちに産経新聞東京本社の住田編集局長、そのあとに二上会長が列車でかけつけてくれて、前夜祭は盛り上がった。

 その後、中原さんの様子を聞いてみたら、心配ない、ということで一安心であった。

畳の香りにおう対局室

「天童ホテル」はすっかり立派になっていた。まだ1階ロビーの外の庭園は工事中であったが、内部は完成していて、明るくて、スマートな装いで、いいホテルになっていた。

 9階の対局室は20畳の広さで、部屋に入ると畳の香りがにおっていた。盤の上の天井には、モニターテレビ用のカメラが設置されていた。

 対局室として棋聖戦が初のお披露目である。

 和服の羽生、三浦が入室したとき、新しい畳を袴の裾がなでて衣ずれの音を聞かせていた。

 2連勝の羽生は本局を制すると3連勝で「棋聖位」を防衛、さらに5期連続獲得で「永世棋聖」の称号を手中にする。羽生は決意を新たに本局に臨んだはずだ。

 三浦は2連敗で、あとのないカド番を迎えた。第1局は初対決の羽生棋聖と五分の戦いをしただけに、このカド番をしのいで追い上げたいとの思いであろう。

 田丸八段の合図で始まった戦いは、角換わり腰掛け銀になるかと思ったら、三浦が急戦にさそって序盤から超急戦の様相。

 三浦は何とも大胆である。カド番というひるみはどこにもない。いじいじしていない。いい若者が出てきたものだ。

将棋デーの盛況

午前10時から1階のロビーで指導将棋が始まった。二上会長、田丸、塚田の両八段、勝又清和四段、高野秀行三段、山田久美女流二段が指導棋士という、ファンにはうれしい会である。

 開始と同時にたちまち満席である。プロの棋士と指せるのは、ファンにとってはうれしい会ことだ。

 勝又四段の15面指し、二上会長と山田女流二段の色紙が即売され、売上金は地元の福祉団体に寄付、午後からは2階で公開対局、3階では大盤解説会と、この日の「天童ホテル」は将棋デーのにぎわい。

公開対局

 午後1時から2階の特設ステージで、公開対局が開始された。記録係は渡辺恭位三段が午前に引き続いて担当、棋譜読み上げは高野三段が受け持った。

第3局。将棋世界1995年9月号より、撮影は中野英伴さん。

(中略)

 天童の観戦者は優等生であった。静粛に観戦していて、対局者の神経を乱すまい、という気配りがうかがえた。主催社としてお礼を申し上げたい。

 羽生が左手で宙に舞う右袖を押さえて、はっしとばかり駒を打ち下ろす。美しい絵である。

 三浦が鋭い眼光で盤上をにらむ。精悍そのもので、いかにも勝負師といった感じである。

第3局。近代将棋1995年9月号より、撮影は炬口勝弘さん。

 終局となり羽生の勝ちが知らされると、会場から高い拍手が巻き起こった。

 三浦は健闘であった。将棋に勝って勝負に負ける、というが、第1局、3局の三浦将棋はそうであった。

 勝負にもちこんでからが、三浦は羽生に及ばなかった。しかし、若い三浦にとってこの五番勝負は、きっといい試練になったはずだ。

箱根の第1局

 棋聖戦は今期から一年一期制の大型棋戦になった。その記念局のタイトル戦に若い三浦の登場は、若手の登竜門といわれた棋聖戦にふさわしい。タイトル戦が初対戦という羽生-三浦戦は、新鮮な魅力があった。

 三浦は和服を3着新調していた。ご両親が息子の晴れ舞台にそなえて準備されたものであろう。

 第1局は箱根の「ホテル花月園」。羽生はマイカーで直行、三浦は立会人の高柳敏夫名誉九段らと東京駅から新幹線で小田原へ。

 かばんの中から三浦が4冊の将棋の本を取り出して「これはフロントに預けたほうがいいですか」という。

 対局中に将棋の本を読んでいる、と思われるのではないかという心配である。私は自分の部屋においときなさい、と返答したが、タイトル戦に将棋の本を照れずに持参するのが、いかにも「将棋の虫」と呼ばれる三浦にふさわしい。

 ふとカンニングという忘れていた言葉を思い出して私は苦笑していた。カンニングでどうこうなる世界ではないのだ。

 三浦は善戦した。控え室では「三浦よしか」の声さえあがっていた。が、勝負に入ってからの羽生の指し手は冴えかえっていた。安全勝ちを狙わず、ぐいと踏み込んでいった気迫はすばらしい。

(中略)

「銀波荘」での第2局

「銀波荘」に向かう新幹線で、新横浜から「銀波荘」の女将さんが乗車したのにおどろいた。横浜で開催された全国の旅館の「女将さんサミット」に出席した帰りであった。大病を克服して元気になられたのがうれしかった。

「銀波荘」は今年が40周年になるそうだ。棋聖戦も30年近くお世話になってきた。

 前夜祭の会食のあとで、隣接の形原温泉の名所「あじさいの里」を見に行くことになった。ライトアップされた5万本のアジサイは、まことに見事であった。

 将棋は相穴熊となったが、三浦が途中でポキンと折れた感じで、羽生の2連勝となった。三浦の振り飛車穴熊を、羽生は研究していたようだ。

第2局。将棋マガジン1995年9月号より、撮影は弦巻勝さん。

第2局。将棋マガジン1995年9月号より、撮影は弦巻勝さん。

 打ち上げのあと銀波荘の社長夫妻、羽生、三浦でマージャンとなった。三浦はゲーム機でマージャンを覚えて、人間とのチイ、ポンは初めてだそうだ。

 笑い声の弾むマージャン光景を見ていて、なんとなく私は明るい気分になっていた。かつての将棋界にあった「どろり」としたものが消えてきた。勝負はきびしく、日常は明るくで、いまの若い人はすっきりしている。「どろり」とした味に郷愁はあるが、それは私が老いたせいであろう。

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「山形空港から天童ホテルに向かう車のなかで、小泉さんと相談して中原さんのピンチヒッターを二上会長に頼んでみることにした」

棋聖戦の一期制を記念した特別立会人。

中原誠永世棋聖が来れなかったのは残念だが、二上達也会長(当時)は棋聖獲得4期なので、絶妙なキャスティングだったと言える。

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「三浦は何とも大胆である。カド番というひるみはどこにもない。いじいじしていない。いい若者が出てきたものだ」

「三浦は健闘であった。将棋に勝って勝負に負ける、というが、第1局、3局の三浦将棋はそうであった。勝負にもちこんでからが、三浦は羽生に及ばなかった。しかし、若い三浦にとってこの五番勝負は、きっといい試練になったはずだ」

いい若者が出てきたものだ、は最上級の褒め言葉だと思う。

この翌年、三浦弘行五段(当時)は、羽生善治七冠(当時)から棋聖位を奪取し、七冠の一角を最初に切り崩すことになる。

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「かばんの中から三浦が4冊の将棋の本を取り出して『これはフロントに預けたほうがいいですか』という。対局中に将棋の本を読んでいる、と思われるのではないかという心配である。私は自分の部屋においときなさい、と返答したが、タイトル戦に将棋の本を照れずに持参するのが、いかにも『将棋の虫』と呼ばれる三浦にふさわしい」

タイトル戦に棋書を持ってくる熱心さと、「李下に冠を正さず」そのものの誠実さが、いかにも三浦九段らしい。

よくよく考えてみると、三浦九段は木村一基九段の結婚披露宴の最中に詰将棋を解いていたわけで、そう考えると、タイトル戦の移動時や対局以外の時間に棋書を読んでいたとしても、全く不思議ではなく感じられる。

後のインタビューで、この時に持っていた棋書のうちの2冊は、福崎文吾八段(当時)の振り飛車穴熊の本と森下卓八段(当時)の矢倉の本と語られている。

この当時からすると次の2冊であると考えられる。

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「打ち上げのあと銀波荘の社長夫妻、羽生、三浦でマージャンとなった。三浦はゲーム機でマージャンを覚えて、人間とのチイ、ポンは初めてだそうだ」

羽生六冠は麻雀をやらないわけではないけれど、やるのは稀。三浦五段は初めて(この時が最初で最後だったかもしれない)。

棋士麻雀史というものがあるとしたら、歴史に残るような貴重な組み合わせだと思う。