「棋譜を見ただけでは絶対に知り得ない、生きた勝負を知る上での貴重な話」

将棋世界2002年12月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 新人王戦は木村一基六段が2勝1敗で鈴木大介七段を降し、見事前年度準優勝のウップンを晴らした。

 8月某日、手合課から連絡があり第1局の立会人をやらないかとの打診。

 勝ちまくる若い二人の対決だ、こんな面白い見物はない。二つ返事で引き受けた。対局日は9月26日、いつものことだが早い時間帯の控え室は観戦の棋士達の姿もなくのんびりしたものだ。

 私もしんぶん赤旗の方々と碁を打ったりして過ごしているとやがて夕刻になりぼちぼち人が集まってきた。

 先崎八段、佐藤康光棋聖・王将、河口老師の顔も見える。将棋は鈴木が良さそうだが難解を極める終盤となっている。

 研究の気楽さで私などすぐに駒を動かして調べるのが常で、初めのうちは先崎もそれに付き合っていたのだが、そのうちもどかしくなったのか佐藤と二人ソラで手のことを語りだした。凄いスピードでペラペラとやっている。余程注意して聞いていないと話の内容についてゆけず、すぐに疲れて諦めてしまった。

 二人の世界に浸っているのだ。そういえば昔そんな歌があったっけ、その場の誰にも入り得ない二人の世界を佐藤と先崎は満喫しているのだろう。

 将棋は鈴木は只捨て銀の妙着を放ち押し切った。

 10月7日、藤井九段対郷田九段の順位戦当日、またもや老師と先崎が記者室にいてこの将棋を調べたり、現代将棋を賑やかに論じている。先崎は対局を済ませての居残り組だが、老師の熱心さはエライものである。

 藤井が序盤からリードし、皆がもうすぐ終わるよ、などと云っていた矢先テレビモニターに△1七香が示された(A図)。

 居並ぶ面々一様にオーッという表情をする中、先崎は即座に▲1八香を示したのだ。△1七香は郷田渾身の一手であるが指されてみればナルホドという手。私は▲1八香に驚いた。こんな筋、見たことないからだ。見たことない手を瞬時に示す先崎の柔軟な思考力に舌を巻かざるを得ない。動揺した藤井は▲1七同香と取ってしまい△4七金以下逆転されてしまった。局後、郷田も▲1八香は知っていてそれで負けだと思っていたそうである。それを聞いてまたもやウームと唸らされた。

 そんな先崎だが、今日の自分の将棋、実は負けていたというので早速見せて貰うと、局面はB図、勝敗を分けた問題の場面。

 ひと目△7六銀で後手の植山六段の勝ちと思える。先崎もそう来られると読みここまで局面を組み立ててきたのだ。

 その先の秘手を用意して……。

 ところが相手の考慮中とんでもない手があることを発見してしまう。B図から△3八飛成とされると▲4八歩△4七銀▲6八玉△7六金で受けなしであることに気づいてしまったのだ。愕然とした。しかし相手は△7六銀と指すという予感はあった。先崎はどうしたか、彼は手洗いにも立たず、タバコも喫わず、息をひそめ、それまでと変わらぬ素振りで読み耽るフリをしたのだ。場の雰囲気が少しでも変われば、△7六銀を読んでいるであろう相手が、別の手△3八飛成に気づいてしまうと考えたのだ。植山は不運にも△7六銀を着手し、先崎の狙い澄ました▲7七金を見舞われてしまった。棋譜を見ただけでは絶対に知り得ない、生きた勝負を知る上での貴重な話である。

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先崎学八段(当時)の

  • 読みの深さ(二人の世界)
  • 読みの早さ(▲1八香の発見)
  • 勝負術

がそれぞれ描かれている。

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対局中にテレパシーのようなものが働くことがある。

明らかな悪手を指したとしても、

  • 指した棋士が悪手であることを気づいていない場合、相手の棋士もそれに気づかない
  • 片方が気がついたら、もう片方も気づく

という現象。

対局中のテレパシー

郷田真隆六段(当時)「あいや、しばらく」

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先崎八段のケースでは、普通なら黙っていても植山悦行六段(当時)に気づかれてしまうところ、

先崎八段は、手洗いにも立たず、タバコも喫わず、息をひそめ、それまでと変わらぬ素振りで読み耽るフリをする、という修験道士のような術を使ってこの難局を切り抜けた。