将棋世界1984年7月号、H記者の第16期女流アマ名人戦観戦記「湯川さん、三度目の栄冠」より。
昭和43年に誕生した女流アマ名人戦。今年で16回目を迎え、5月13日(日)に東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われた。
(中略)
10時20分より開会式。普及部担当理事の桜井昇七段が挨拶に立ち、「形勢が悪くなったら戦線を拡大して複雑になることを心掛け、逆に良い方は局面を分かりやすくして、谷川名人流に一直線に決めて下さい」とアドバイス。
次に審判役の安恵照剛六段の対局規定の説明があり、いよいよ対局開始。和やかな中にも女の意地を秘めた?闘いが始まった。
(中略)
注目の女流名人戦は16名のトーナメント。湯川恵子さん、山田和子さんといった優勝経験者が本命、対抗。女流では珍しく学生将棋部出身の越前睦美さん、大会で安定した成績を残している是安真理子さんがダークホースといったところか。
ほぼ予想どおりの展開を見せ、準決勝は湯川さんと是安さん、越前さんと坂口さんという組み合わせになった。準決勝からは記録係が付き、持ち時間30分、切れたら30秒の秒読みになる。
湯川-(先)是安戦は、是安さんの四間飛車に湯川さんが△5三銀左~△6四銀と急戦を挑んだ。岐れは難しかったが、中盤から終盤にかけて湯川さんが力強い指し手で圧倒した。
(先)越前-坂口戦は坂口さんの四間飛車に越前さんが少しずつ有利を拡大して、快勝。
机で回りを囲んで観戦者の席を作り、一目で局面が見えるように磁石の大盤を用意。決勝戦の舞台は整った。安恵六段、蛸島彰子四段、報知新聞事業部次長の片瀬俊雄氏が見守る中、午後3時10分過ぎに決勝戦が始まった。
昭和59年5月13日 東京・将棋会館
第16回女流アマ名人戦決勝
▲越前睦美 △三段 湯川恵子(中略)
湯川さんと越前さんはお互いに良く知っている間柄。いかにも和気あいあいといった、にこやかな表情で指し始められた。しばらくして二人ともきびしい表情になった。が、越前さんの▲9六歩~▲6八銀を見て、湯川さんが笑顔で「居飛車穴熊でくると思ってたのに」。つられて越前さんも笑う。
記者も連採していた居飛穴が越前さんの得意戦法と思っていたので、少々意外だった。虚々実々のかけひきか、あるいは女心の微妙な変化?
湯川さんは棒銀を△2二角~△6三金で迎え撃つが、△6三金を保留して早めに△5一角~△6二角とする対策もある。1図は現在では、後手やや損とされている形である。
1図以下の指し手
▲4五歩△4三銀▲3五銀△5五歩▲4四歩△同銀▲3四銀△5六歩▲同銀△7三桂▲3三歩△5二飛▲5七歩△1三角▲4四角△5六飛▲同歩△4九銀▲4八飛△5八銀成▲同飛△4七金(2図)棒銀対振り飛車では定跡となっている攻防が続く。▲4四歩の取り込みは見かけない手。しかし、△同銀▲3四銀となってみると、後手の受け方が非常に難しい。とすると、△4四同銀では△同角と取り、以下▲3四歩△6二角▲5五角△4四歩といった変化を選ぶのが正解だったか。
受ける適当な手なしと見た湯川さんは、△7三桂~△5二飛だが、越前さんに冷静に受けられて、2図では飛車損の形。これではいくら何でも勝負あったと見たのだが。
2図以下の指し手
▲2八飛△6五桂▲6六銀△4六角▲2七飛△3七歩▲2六飛△5一歩▲6五銀△同歩▲5五銀△6八角成▲同玉△3八歩成(3図)▲2八飛では△4六角と出られた時、当たらないように▲1八飛と逃げれば良いのにと思ったが、▲2七飛と逆先を取る意味なら合点がいく。
△5一歩は”どうにでもしてちょうだい”と手を渡した手。キャリア豊富な湯川さんらしい手だが、いかんせん形勢が悪すぎる。
越前さんは桂を取って▲5五銀。持ち時間を使い切りこの手から30秒の秒読みになってしまった。形勢は圧倒的有利、心配があるとすれば秒読みだけ。一方湯川さんの方は10分程残している。
3図以下の指し手
▲3一飛△4八と▲6四桂△8五銀▲7二桂成△同金▲5一飛成△7六銀▲7一角打△7三玉▲6四銀打△8四玉(4図)底歩を打たれているのに▲3一飛と一段目におろすのはおかしい。▲2二飛と二段目に打って、常に働く形にしておくべき。
湯川さんは間に合いそうもないが、一手一手積み重ねて△7六銀と、角を持てば詰む形に持ち込む。
越前さんの△7一角打では、王手をかけずに▲8一銀とすれば、分かりやすい勝ち。これでほぼ受けなしである。本譜でも、勝ちだが△8四玉と逃げられて意外と難しいので、びっくりしたのではないだろうか。
4図以下の指し手
▲6三銀不成△同金▲5三角引成△5八と▲7八玉△5三金▲同角成△6九角(投了図)まで、96手で湯川さんの勝ち▲5三角引成が敗着。角が欲しいと言っているところに角をくれてしまったのだから。△5八とのところで二人とも笑顔になり、以下△6九角で投了。
角を渡さなければ、先手玉は詰まないので、勝ちには違いないが調べてみると簡単ではない。▲5三角引成ではどうやら▲6四銀と出て勝ちのようだ。△同金と取っても、放っておいても▲6二角行成以下、長手順だが詰み。秒読みでは難しい寄せである。やはり、前譜で▲8一銀とする分かりやすい寄せを逃したのが痛かった。
勝った湯川さん(33歳)は5回の決勝進出で3回目の優勝。これは、現在女流プロの多田佳子二段の4回に次ぐ記録である。
女流の将棋の場合、序中盤うまく指していても、終盤になるとガタッと崩れる人が多いが、湯川さんの場合中終盤が安定しているのが強味である。
湯川「越前さんの弱さにはあきれました」と言えば、越前「湯川さんの強さにはお見それしました」と明るい。
昨年の女流アマ名人戦が、ヤングの大活躍とすれば、今年は名人戦、一般戦とも今流行の”熟女”の巻き返しと言えないだろうか。
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湯川恵子さんは終盤になると、神なのか邪神なのか、とにかく何かがとり憑いたかのように、別人になったかのように、力を発揮する。
湯川さんとは何度も指したことがあるが、序・中盤が私の圧倒的優勢でありながら負けることが非常に多かった。
そのうちの一度は、近代将棋の湯川さんの連載ページで取り上げられている。
私が序盤~中盤で99.5対0.5で優勢だった将棋が、終盤でひっくり返されている……
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この女流アマ名人戦の将棋を細かく見てみたい。
A図で△4四同銀のところ、△同角▲3四歩△6二角▲5五角△4四歩の変化の方が正解だったと書かれているが、この変化も相当に振り飛車側が面白くない変化。ということは、この局面では既に振り飛車不利と言って良いのだろう。
A図以下の指し手
△同銀▲3四銀(B図)
▲3四銀(B図)と出られて振り飛車的には非常に悩ましく難しい局面。
△3七歩▲同飛△3六歩▲同飛△4五銀と無理やり捌く手順も考えられるが、湯川さんは中央に手を求めた。
B図以下の指し手
△5六歩▲同銀△7三桂▲3三歩△5二飛▲5七歩(C図)
▲5七歩(C図)とガッチリ守られてみると、振り飛車側がとても苦しい。
ここから湯川さんは、鬼神をも恐れぬような手を敢行する。
C図以下の指し手
△1三角▲4四角△5六飛▲同歩△4九銀(D図)
4四の銀を見捨てて△1三角、更には△5六飛と切ってからの△4九銀。この時点で飛車損。
穏やかに行儀よく指していてはジリ貧は免れそうにないので、このようなワイルドというか野蛮な指し方は、勝負の気合いとしては効果的だったと考えられる。
D図以下の指し手
▲4八飛△5八銀成▲同飛△4七金▲2八飛△6五桂▲6六銀△4六角▲2七飛△3七歩▲2六飛△5一歩(E図)
△3七歩は泣きたくなるような辛抱の手。E図の△5一歩のところ、実戦心理としては△5七歩あるいは△5七桂成と攻め合いに行きたくなるが、そこを△5一歩の耐え忍ぶ演歌の歌詞のような一手。
この辺からが終盤へ向けての魔術の始まりと言っても良いのかもしれない。
E図以下の指し手
▲6五銀△同歩▲5五銀△6八角成▲同玉△3八歩成▲3一飛△4八と▲6四桂△8五銀(F図)
△3八歩成~△4八とが、映画『リング』の貞子が這ってくるような雰囲気の迫り方。
△8五銀も妖しげな一手。しかし、この△8五銀が、勝負の気合いとしては筋が通っていた。
F図以下の指し手
▲7二桂成△同金▲5一飛成△7六銀(G図)
△7六銀と進んで、先手が間違えば詰む形を作り上げた。(角を入手できれば詰み)
この辺の考え方は参考になる。
ほとんど絶望的な形勢からここまで盛り返したのだから凄い(とはいえ、まだ先手必勝形)。
G図以下の指し手
▲7一角打△7三玉▲6四銀打△8四玉(H図)
▲7一角打では▲8一銀の方が分かりやすい寄せということだが、ついつい▲7一角打と指してみたくなるところ。
H図から▲6四銀が正解ということだが、アマ県代表以上でなければ見つからないような手だ。
以下、角を入手した湯川さんが勝った。
まさしく、神か邪神が取り憑いたような終盤。相手を間違わせるのだから邪神なのかもしれない。
将棋はどんなに形勢が悪くとも諦めてはいけない、と教えてくれる棋譜だ。
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湯川さんは、この後も女流アマ名人戦で2回優勝しており、女流アマ名人戦通算5回の優勝を果たしている。
この記録は新記録であり、いまだに破られていない。
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湯川さんは以前からTwitterのアカウントを持っていたが、パスワードを忘れたということで、新しくアカウントを作り直している。「水疱瘡」と言ったのは私かもしれない…
←変えました。前の自作クロスワードパズルの柄は「水疱瘡」のようで気持ち悪いと友達に言われまして。今回のは昔自分の本の表紙用に描いたものです。特に髪型は「詐欺だろ」と夫が言いました。実物は丸坊主(ーー;
— 湯川恵子 (@3eouwOe1HPNp2YJ) December 27, 2020