先崎学七段(当時)がいつも負けてしまう継ぎ盤

将棋世界2000年3月号、河口俊彦六段(当時)の「新・対局日誌」より。

 東京の控え室は、今日も中原対先崎戦である。例によって先崎君が素早い手つきで片っぱしから並べ、寸評を言うと、だいたい中原さんがそれにうなずく。

 夜戦に入るころ、まず高橋九段が来て継ぎ盤の先崎君のななめうしろに座った。つづいて、羽生四冠、森内八段があらわれ、控え室は俄に活気づいた。

 話題になっているのは、A級順位戦の加藤九段対島八段戦。加藤九段が「横歩取り」で、駒組みが出来上がらぬうちに角を切って飛車を成り込んだが、衆評はかんばしくなかった。

 頃合いを計って、谷川対丸山戦の棋譜を出すと、ざっと並べられて、それっきりだった。すでに谷川負けが伝わっていたが、誰も何の反応もしめさない。おかしいな、谷川2勝5敗は一つの事件だと思うがな、と内心首をヒネったが、ここはA級の人が多い、成績の話はさしさわりがあるから、みんな無関心をよそおったのだ、と解することにした。

 9時ごろ、中田対久保戦が終わって、久保勝ち。8図の後、寄せに入るところで強烈なパンチが当たった。鈴木対行方戦は、このころ行方必勝になっていた。

 そういった経緯を一通り見終わったところで、中原さんが継ぎ盤からはなれた。出て行く姿を見て、先崎君がボヤいた。

「嫌になったな。何べん負かされたかわかりゃしない。コテンパンだ。ま、ボクがいつもわるい側を持っていたからな」

 すると高橋九段が身を寄せて言った。小さな声なので聞きとれない。しかし、これは大事なことなんだよ、と真面目に言っている気配がある。後で先崎君に、「何と言われた?」と聞いたら「優勢な側を持てばいいのに、と言われました」と教えてくれた。

 控え室の何気ない研究も、これだけメンバーがそろうと、真剣勝負の場みたいになる。

(以下略)

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この頃の控え室では、中原誠十六世名人と先崎学七段(当時)が同じ継ぎ盤で検討することがいつもの光景だったようだ。

当時の中原十六世名人は、現在の谷川浩司九段とほぼ同年齢。

この日の控え室の模様を年齢的・世代的に現在に当てはめてみると、

谷川浩司九段と中村太地六段が継ぎ盤を挟んでいて、夜戦に入るころ、行方尚史八段が中村太地六段の斜め後ろに座って、続いて佐藤天彦名人と糸谷哲郎八段があらわれた

のようなイメージになる。

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この頃は一部のタイトル戦以外のネット中継が行われていなかった時代だった背景があるとしても、中原十六世名人が控え室の常連だったのは凄いことだと思う。