将棋世界1996年12月号、「棋聖就位式」より。
羽生善治七冠王を破り初タイトルを獲得した三浦弘行棋聖の就位式が9月30日、東京・永田町の「キャピトル東急ホテル」で行われた。会場には、地元群馬県群馬町のファンがバス2台で駆けつけたのをはじめ、約250人が集まった。
三浦棋聖は「棋聖を取れたのは負けてもともとと楽に指せたからで、羽生先生とはまだ力の差があります。簡単に取り返されないように精進します」と謝辞を述べた。
また、三浦棋聖は第1局が行われた兵庫県洲本市に、阪神淡路大震災復興の一助にと、賞金から100万円を寄付した。
* * * * *
近代将棋1996年12月号、「羽生を破った男 三浦新棋聖就位式パーティー」より。
羽生七冠を破った男として、三浦へのマスコミ取材はたいへんなものだった。おかげで彼は将棋の調子を崩し、重視している順位戦で思わぬ3連敗をしたほどだった。今までは将棋マスコミの取材ていどだが、一般マスコミの凄さには大いに困惑した。対局の前日は静かに集中力を高めたいと思っているのに、電話をじゃんじゃんかけてきたり、折角会えば変人扱いされる。いったいマスコミってなんなんだと、若い三浦が思ったとしても不思議はない。
(中略)
七冠王を最初に破ったからこそ騒がれたので、これが二番目の人になればそれほどでもなかろう。たまたま一番目というのも、彼には強運が備わっているのかもしれない。その秘密の一端でも分かりはしないかと、棋聖パーティーへ出かけてみた。
9月30日(月)午後6時。場所は、赤坂日枝神社の隣りにあるキャピトル東急ホテル、昔のヒルトンホテル。かつて羽生さんが婚約発表前と後の2回就位式をやったが、女性客の入りがガクンと落ちてやっぱりねえと記者仲間で笑いあったことがあった。今日の会場は羽生さんのときと比べて半分くらいの広さ。
だいたい就位式というのは、マスコミ対象で昼間行われることが多い。新聞記者は夜は締切で忙しいゆえの慣例である。夜やるということは一般将棋ファン向けの場合だ。定刻前に会場へ入るとすでにたいへんな人出だ。いつものように業界人が多いパーティーと思っていたので面食らった。
聞いてみると、彼の地元の群馬から大型バス2台で100人ほどの後援会が大挙してやってきたのだそうだ。これでもまだ制限してきたという。客層は年配の着飾ったおばさまやおじさま族が多い。たちまち会場は、関係者と合わせて250人ほどの人でいっぱいになり、歩くのもたいへんになった。
いよいよ式が始まった。型通りの表彰式。主催者・産経新聞社長のあいさつと将棋連盟・二上会長のあいさつ。いつも羽生さんが主役だったのが久方ぶりにニューヒーローの登場だ。
「荒削りなタケゾウというイメージをそのまま伸ばしていってほしいものです」
二上会長もネタが変わってあいさつがやりやすかったようだ。ちなみにタケゾウは、産経の福本記者命名だ。剣豪・宮本武蔵の幼名で、野性的なマスクと豪快な棋風から付けられたあだ名だ。いよいよ彼のあいさつが始まった。
「…私のほうは負けてもともとで気楽にできたし、逆に羽生さんのほうは結婚や七冠騒動でたいへんでした。それに相手が私では多少油断されたのでしょう。今後、タイトル戦を何回やっても勝てないでしょう…」
羽織、袴を付けて立派な体(173センチ、73キロ)が高い壇上に上がると、まるで昔の剣豪を思わせる迫力がある。
いつもの三浦さんのイメージ(人前が苦手なような恥ずかしそうな)とは違い堂々とした態度で適度なユーモアと人の心をつかむ話術も披露した。まだ22歳の若さだが、地位が人間をつくるものらしい。
続いて師匠の西村八段のお嬢さんから花束贈呈。知的な美人で和服姿がまぶしいほどきれいだった。弟子と娘の晴れ姿を見た師匠もさぞや嬉しかったと思う。
来賓のあいさつで可笑しかったのは彼の地元・群馬町の町長さん。
「…三浦さんが羽生七冠を破ったというので、町は大騒ぎ。なにしろ産経新聞の一面に出ましたし、テレビのニュースでもやっている。こりゃたいへんということで、さっそく町役場の屋上から懸垂幕を垂らし、町の三役揃いで三浦家へ祝賀のごあいさつへ伺うようなことになりました。我が町の名誉町民は、文化勲章の土屋文明先生、元総理の福田赳夫先生ですが、ぜひ三浦さんにもなってほしい」
意外な血筋が分かったのは、次に出た親戚の女性のあいさつ。
「私の父、福田赳夫と弘行君のお祖父さんとは従兄で、家族ぐるみ仲のいい親戚つきあいをさせていただいています。父と三浦さん(祖父)はともに勉学のために東京へ出て、一緒の下宿で暮らした仲です。お祖父さんという人は弘行君と似て、服装などは無頓着の人でした。晩年は父の主治医として、毎週金曜日に来ては脈をみて、お話をしていくのが日課でした…。こどものころの弘行君をよく知っていますが、まさかあの子が天下の羽生さんを倒すとは、びっくりしました。え~。今は私も議員の妻になりまして来る選挙を戦います。上から読んでも下から読んでも同じ、オチミチオをよろしくお願いします(笑)」
元総理の親戚とは今まで将棋界では知られていなかった事実だ。今までこんな血筋の棋士がいただろうか。彼からも一度も聞いたことがないし。
…一緒に大学を目指し、一人は大蔵官僚から政治家になり、一人は医者となった。二人は同じ釜の飯を食った気の置けない従兄であり、同士である。こんなに濃い親戚だったとは驚きだ。野性味ある三浦の面構えの向こうに、無類の知性とバイタリティの山がそびえているように感じた。
(中略)
彼の風貌と初対面の印象だけでは、ちょっと変わった無口な青年と思う向きもある。でも、話好きだし、自分の考えをしっかり持った大型の人物である。棋士のような狭い古風な世界では、ともすると周りや先輩の意見を鵜呑みし、自分では判断つかない人がいるが、彼は何事にも自分の頭で考えようとする。読書傾向も歴史もの、ノンフィクションものなど実際にあった話を好み、恋愛やSFなどは読まない。理由は実際にあったことならためになるからと割り切っている。
三浦は雑誌のインタビューに答えて、今の埼玉のアパートよりもっと山奥で、10年位静かに研究したいと語っている。世間とあまり交わらないほうが、自分の持ち味をじっくり創れると感じているようだ。こういう人は、まだまだ伸びる可能性を秘めている。
会場は混雑をきわめているが、三浦が今どこにいるかはすぐに分かる。彼はつねに記念写真の輪の中にいるからだ。取り囲む地元後援会の人も、本当に嬉しそう。
記者仲間の舌も滑らかで、
「久しぶりに将棋指しらしい豪快な人物が現れたねえ」
「優等生的な、そつのない似たような考えの青年が多いと感じてきたが、三浦君はちょっと我々がつかみきれないところがあるね。どう化けていくか楽しみだ」
「でもさ、つかめないまま書くと、へんな記事になるんじゃないの」
「本当言うと、年配者ではつかめない若者が多いんじゃない」
「我々ももっと勉強しなきゃ」
「羽生さんが七冠までは羽生一本槍だったけど、一つでも崩れると、今度は倒す側へ回るんだよな」
「でも、羽生さんも案外ホッとした面もあるんじゃないかな。あまり追い掛けられなくなって…」
「しかし三浦さんと福田さんの縁には驚いたね。全然知らなかったもの」
「ところで今度は誰だろうね、羽生さんを倒すのは…」
つかめてもつかめなくても、とりあえず報道するのがマスコミの役目だ。つまり記者よりスケールの大きい人が出ると怪しい記事が出るというわけで、へんな記事が出たら、俺は大物と思っていればいいわけだ。
宴もたけなわとなったところで、お開き。群馬勢もバスでご帰郷し、関係者もそれぞれに散っていた。あまり身のないパーティーもあるが、今回はしっかり味のついた、いい集まりだった。
* * * * *
「…私のほうは負けてもともとで気楽にできたし、逆に羽生さんのほうは結婚や七冠騒動でたいへんでした。それに相手が私では多少油断されたのでしょう。今後、タイトル戦を何回やっても勝てないでしょう…」
このような率直な表現と謙虚さが三浦弘行九段らしいところ。
ある意味では型破りなスピーチと言える。
* * * * *
「荒削りなタケゾウというイメージをそのまま伸ばしていってほしいものです」
この当時の三浦棋聖はマスコミなどからタケゾウと形容されていた。
宮本武蔵はタケゾウと呼ばれた少年時代から剣豪だったと伝えられている。
* * * * *
「二上会長もネタが変わってあいさつがやりやすかったようだ」
二上達也会長(当時)からすれば、就位式というくくりの中では9回連続で弟子の羽生善治六冠(当時)の就位式に出席していたわけで、というか、2年数ヵ月の間にあった16回の就位式のうち15回が羽生六冠の就位式だったわけなので、本当にそうだったのだと思う。
* * * * *
「いつもの三浦さんのイメージ(人前が苦手なような恥ずかしそうな)とは違い堂々とした態度で適度なユーモアと人の心をつかむ話術も披露した」
三浦九段の解説などを聞いても、三浦流のユーモアが随所に出てくる。
多くの人に愛される得難いキャラクターだ。
* * * * *
「元総理の親戚とは今まで将棋界では知られていなかった事実だ。今までこんな血筋の棋士がいただろうか。彼からも一度も聞いたことがないし」
三浦九段と故・福田赳夫元首相は6親等の血族ということになる。
* * * * *
「三浦は雑誌のインタビューに答えて、今の埼玉のアパートよりもっと山奥で、10年位静かに研究したいと語っている」
この考え方が面白い。
* * * * *
この時の就位式には、愛棋家の萩本欽一さんも訪れていた。
下の写真は、萩本欽一さんと談笑する三浦棋聖。
三浦九段のお母様は萩本欽一さんの大ファンで、「あたし、欽チャンの大ファン」と壇上に上がったという。とても楽しいお母様だ。
左は田中寅彦九段。
* * * * *
「三浦棋聖は第1局が行われた兵庫県洲本市に、阪神淡路大震災復興の一助にと、賞金から100万円を寄付した」
阪神・淡路大震災が起きた1995年1月17日早朝は、三浦弘行四段(当時)は順位戦の対局のため大阪のホテルにいた。