中井広恵女流五段(当時)「奨励会での経験は他の何にも変えられない私の財産。四段になれなかったのは残念だけど、またちゃんと別に目標ができたから」

近代将棋1997年2月号、中井広恵女流五段(当時)の「棋士たちのトレンディドラマ」より。

将棋世界1997年3月号より、撮影は弦巻勝さん。

 今月は私自身の奨励会時代の事を書かせていただこうかと思う。

 私は昭和58年に奨励会に入会した。当時は入会希望者が多くて、東西合わせて100人以上が受験し、そのうち20名程が合格した。

 同期の棋士では、中川六段、畠山(成)六段、櫛田五段、勝又四段、近藤四段がいる。

 四段になるため北海道から上京して内弟子に入ったので、これからどんどん勝ちまくるゾ……と思っていたのだが、現実は厳しく、いきなり連敗し7級へ降級してしまった。

 その後、すぐ5連勝して昇級のチャンスをむかえたが、そこへ立ちはだかったのが、郷田六段(当時6級)。

 彼は、入会当時あまり成績が良くなかったのだが、その頃に充分力をたくわえていたのだろう。

 結果は明らか。勝った郷田6級は、そのまま凄い勢いで四段までかけ上がっていった。

 奨励会員の間で、

「天才羽生、絶好調郷田、終了◯◯」という流行語が生まれたほど。(◯◯はご想像におまかせします)

 一方、負けた私はショックで負け続け、とうとう8級まで落ちてしまった。

 その頃は誰と指しても勝てる気がしなくて、ああーこのままやめさせられてしまうのかナ……と思ったほど。

 奨励会では香落ちがあって、2級差まで手合いがつくのだが、9級に落ちると手合いがつかなくなるので、自動的に退会だった。といっても、本来なら8級に落ちた時点で、師匠から見込みが無いので辞めろと言われてもおかしくはなかった。

 しばらくして、兄弟子である主人の口ききで、月研という毎週月曜日に開かれる研究会に入れてもらった。

 メンバーは棋士や奨励会の有段者の人ばかりで、普通ならそんな弱い私なんか仲間に入れてもらえないのだ。

 当然ここでも負けっぱなし。ある時なんて、私が角の丸得の将棋を逆転されて負けてしまった。

 すると、夜、食事をしながら先輩達に説教されるのだ。

(中略)

 でも、今思えばそういうありがたい先輩達がいたから、今の自分があるんだと感謝している。(その頃は鬼だ!!と思ったけど)

 そのうち、研究会で1勝、また1勝と勝てるようになり、それが自信につながり、次第に奨励会でも成績が上がっていった。

 1年で4階級も昇級した年もあった。

 その頃の奨励会幹事は滝七段と松浦六段。一見怖そうだが本当はすごく優しい先生達で、私はたまに連勝すると、「今日は雪でも降るんじゃない?」と笑いながら声をかけてくれた。

「中井に負けたら坊主」という決めが奨励会員の間にあったか無かったかは知らないが、実際に剃った人はいたよう。

 私から見れば、相手は全員男の人なので、あまりよく覚えていないのだが、最近になって、当時一緒に戦った人達に、「昇級の一番で中井さんに負かされたんですよ」なんていう話をされたりして。

 奨励会というところは、とても異様な雰囲気だった。

 大広間では級位者、銀沙、飛燕の部屋では有段者というふうに部屋が分かれていて「早く有段者の部屋で指したい」というのが、級位者のとりあえずの目標なのだが。

 大広間には指定席があるのだ。長く1級にいる先輩達が、ずらりと床の間を背にして、たばこをふかしながら指している。かなり怖かった。

 ただ、その殆どの人が辞めていったので、指定席に座ると四段になれないというジンクスが囁かれていた。

 奨励会では精神的なものがかなり影響するので、そういうことも結構皆気にしていた。

 途中で幹事が神谷六段と大野六段に変わった。新幹事には、私はいつも「中井君」と呼ばれていた。これも幹事の先生の優しさで私を他の奨励会員と全く同じにあつかうという表れであった。

 でも、何か不自然だな、という気持ちもあった。学校でも女子は「さん」付けで呼ばれるし、なんか自分が呼ばれているという気がしないのだ。

 その頃ぐらいから、男性と女性を無理に比べることはないんじゃないかなぁと考えるようになっていた。

 それまでは、男性と対等に戦いたいとか、負けてたまるかと私の方が意識していたのだが、世の中必ず男性と女性がいるわけで、どちらだって強い人は強いし弱い人は弱いのだと。

 それが逆に奨励会で戦っていくためにはマイナスになったのかもしれないが。

 しばらくして幹事に「中井さん」て呼んでもらった時は何となく嬉しかったな。

 結局、私は2級で年齢制限でやめることになってしまったが、奨励会での経験は他の何にも変えられない私の財産。

 四段になれなかったのは残念だけど、またちゃんと別に目標ができたから。

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「四段になるため北海道から上京して内弟子に入ったので」

その頃のことを、中井広恵女流六段のお母様が語っている。

中井広恵女流名人(当時)「え?何言ってるの?何のことか分かんない」

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「その後、すぐ5連勝して昇級のチャンスをむかえたが、そこへ立ちはだかったのが、郷田六段(当時6級)。彼は、入会当時あまり成績が良くなかったのだが、その頃に充分力をたくわえていたのだろう」

中井女流六段と郷田真隆九段には不思議な縁があり、中井女流六段の奨励会入会二次試験の時の対局相手が、7級に降級していた時期の郷田7級だった。郷田7級は入会当初は連敗が続いていたが、この時に勝ったあたりから調子を急上昇させている。

郷田真隆7級-中井広恵女流二段戦

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「しばらくして、兄弟子である主人の口ききで、月研という毎週月曜日に開かれる研究会に入れてもらった」

月研と同じ研究会なのかどうかはわからないが、奨励会員の研究会の聖地、中野サンプラザでの研究会にも中井奨励会員は熱心に参加していた。

中野サンプラザの研究会

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「『中井に負けたら坊主』という決めが奨励会員の間にあったか無かったかは知らないが、実際に剃った人はいたよう」

蛸島彰子女流六段が奨励会時代に、「蛸島に負けたら坊主」のような雰囲気になっており、実際に奨励会時代の森雞二九段が坊主になっている。

女流棋士第一号・蛸島彰子女流六段が語る「奨励会でたった一人の女性だった青春時代」(文春オンライン)

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「指定席に座ると四段になれないというジンクスが囁かれていた」

今もそうかどうかはわからないが、現在の将棋会館が建てられた1976年から続いている恐ろしい話。

将棋会館が建ってから最低でも12年は続いていた恐ろしいジンクス

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「奨励会での経験は他の何にも変えられない私の財産。四段になれなかったのは残念だけど、またちゃんと別に目標ができたから」

涙が出そうになるほど、素晴らしい言葉だと思う。