将棋世界1997年9月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。
先日引っ越しということをやってみた。
前の住居には20年程も住んだので、まあ気分転換といった意味合いが強い。
それで今更何をと言われそうだが、引っ越しが大事であるのを知った。
運送屋の手配から(荷造りはラクラクコースとかいうのがあって今は便利である)、電話の移転、電気、ガス、水道、郵便物、新聞、住民票、借金、エトセトラ、エトセトラである。この他にも次々と小問題が生じて数え挙げればキリがないほどだ。私の能力ではヒステリーになる寸前である。いかにこれまでの日常生活で、こういった事柄と関わらずにきたかということを思い知らされた。
引越しの達人、田中君(寅彦九段)の行動力を思えば殆ど感動的ですらある。
それでも一段落してみれば、やはり新居は気持ちの良いものである。足乗せ台(オットマンとかいうらしい)付きの背もたれ椅子に坐って一服しながらテレビを見ていると、どうも音声が聞き取りづらい。これはどうしたことかと原因を解明するために(私は昔、科学少年であった)音量を下げて様子を窺った。原因はすぐに明らかになった。その建物から100mほどの所に小田急線の駅があり、我が陋屋のすぐ裏側を電車が数分おきに通過しているのである。電車の擦音とテレビの音声が入り混じっていたというのが結論である。これはしまった、もう少し近辺調査をしっかりしておくのだったと、うろたえても後の祭りというものだ。
ところがこれが不思議なのだが、踏み切りのカンカンカンカンという音が聞こえてから数秒後に電車の通過音が聞こえるのであるが、意外に嫌な気がしないのである。むしろある種の懐かしさを感じるのはどういう訳だろうか。
子供の頃過ごした町はそういう環境ではなかったから、記憶が甦る筈はないのである。どういうことかはわからぬが、救われたような気持ちではいる。
電車の音は平気だが、自動車となるとこれはもう気に掛かってダメである。
ずうっと以前、甲州街道沿いに住んだことがあるが、一晩中の車の音、特に雨が降っている時の水の弾いて走る音が気になって、1年で投了してしまった覚えがある。これなども取り立てて理由があるのではないから、人によってはあべこべということもあるだろう。
どうも近頃ふとしたことで、懐かしさを感じる場面が多くなってきたように思われる。私の年齢(45歳)でそう感じるのが早いのか当たり前なのかは、聞いてみなければわからないが、これも不思議な感じがしている。
例えばいつだったか将棋連盟の記者室で鈴木君(大介五段)と田村君(康介四段)が碁を打っていた。鈴木君はまだ初心者で5級あるかないかといった所。
田村君はそれに輪を幾重にもかけた超弩級の入門者で星目風鈴つきでも全然歯が立たない。このハンディは将棋でいえば両金(八枚落)くらいであろう。
そんなだから碁の内容は相撲でいう初っ切りみたいなもので、観戦者は笑いが止まらないのだが、当の二人は至極真面目な表情である。それぞれの棋力相応に碁の世界に浸っているのであろう。
そういった二人を見ているうちに、ふと懐かしさがこみあげてきた。
遠い昔、将棋を覚えたての頃、雑念など一切なく将棋と親しんでいた記憶が呼び覚まされたようである。若い二人が眩しくも見えた。
だが私もこういった文章を書いてはいても、まだまだ現役のプレイヤーである。若者を眩しがってばかりもいられない。その眩しい光を自分のエネルギーにしてみよう。
(以下略)
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陋屋(ろうおく)という言葉を初めて知った。
狭くてみすぼらしい家という意味のようで、自分の家をへりくだっていう時にも使われる語とのこと。
やはり、真部一男九段は奥が深い。
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「電車の音は平気だが、自動車となるとこれはもう気に掛かってダメである」
私の家の向かい側に地域のコミュニティセンターがあって、たまに高齢者の方々によるカラオケが聞こえてくることがあるが、これは全く気にならない。
ところが、コミュニティセンターから出てくる人達の会話(何を話しているのかまでは判別できない)によって発生してくる物音は、かなり気に掛かってしまう。
音はカラオケの方が大きいけれども、大きな音のほうが気にならないというのが不思議で面白い。
きっと真部八段(当時)の家も、自動車の音よりも電車の音の方が大きかったはずで、何か心理学的な理由があるのだろうか。
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「どうも近頃ふとしたことで、懐かしさを感じる場面が多くなってきたように思われる」
懐かしさを味わおうと、かつて職場があった思い出のあるビルを見に行ったことが何度かある。
しかし、建物は同じでもその建物には思い出のある人達はいないと意識してしまい、「ハードは同じでもソフトが違う」と、懐かしさを感じることができなかった。
3次元的には同じ場所だが、時間軸を加えた4次元的に考えると、全く別の場所ということになるのだろう。
私の場合だけかもしれないが、懐かしさを感じることはなかなか難しい。
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「いつだったか将棋連盟の記者室で鈴木君(大介五段)と田村君(康介四段)が碁を打っていた」
鈴木大介五段(当時)と田村康介四段(当時)は、子供の頃からお互いに張り合いつつも、非常に仲が良い。
この二人の兄弟弟子が碁を打っているのは微笑ましいし、人も多く集まってきたことだろう。
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「遠い昔、将棋を覚えたての頃、雑念など一切なく将棋と親しんでいた記憶が呼び覚まされたようである。若い二人が眩しくも見えた」
たしかに、将棋を覚えたての頃のことを思い出すと、不思議と懐かしい気持ちになってくる。
これも、年をとった証拠なのかもしれない……