江國滋「名人戦大盤解説観戦記」

今日は夏至。

名人戦第7局の勝敗は、夏至の日の夜に決着することになる。

昨日の私の戦型予想、昼食予想とも大きくはずれてしまったが、明日の一般紙やスポーツ紙で大きく取り上げられるであろう名人戦第7局。

今日は大盤解説会も各所で行われ、多くの人が集まることが予想される。

・現地大盤解説会(中村修九段、山田久美女流三段)

・毎日新聞解説会(戸辺誠六段、中村真梨花女流二段)

・朝日新聞解説会(木村一基八段、中村桃子女流1級)

・東京将棋会館道場解説会(広瀬章人王位、安食総子女流初段)

大内九段大盤解説会(大内延介九段、藤森奈津子女流四段)

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今から39年前、中原誠十段が大山康晴名人に勝ち、名人を初めて奪取した年の大盤解説の様子を、故・江國滋さんが描く。

江國滋さんは随筆家で将棋ペンクラブ大賞最終選考委員も務めた。江國滋さんの長女は直木賞作家の江國香織さん。

将棋世界1972年7月号、江国滋さんの「大盤解説観戦記」より。

 新聞社の社旗を持った青年が何人か出て交通整理に当たっているが、ふくれあがった人垣の前に、しばしば自動車が立往生していた。ふだん、あれほど傍若無人にそこのけそこのけと人間を蹴散らして憚ることのない自動車どもなのだもの、たまには肩身の狭い思いをしてもらおうじゃないか。ざまァみろ、と溜飲をさげながら、人垣のうしろに立つと、たちまち一連の連帯感にとけこんで、人は人我は我されど仲よきという武者小路実篤風の心境になって、そこには何かやすらぎに似た空気が充満していた。

 第三十一期名人戦第四局の大盤解説。朝日新聞社の裏手に特設された大盤前に蝟集する人、めのこ勘定でざっと三百人。中年と初老の、ほとんどが勤め人の方々とお見受けした。ウイークデーの昼さがりの、このささやかない息抜きを私はよしと思う。なかには、しきりに腕時計を眺めてはそわそわしている人もいたが、間、いいじゃありませんか、とそばに寄って肩の一つもたたきたくなってくる。

 天下の人気を二分する今期の名人戦である。大山か中原か。大山二勝一敗のあとをうけたこの第四局は、七番勝負の中でもとりわけ重要な対局となるのではないか。盤上を見ると、すでに終盤戦にはいっているのだが、縁台将棋クラスの私には、どちらが優勢なのかとんとわからない。

「え~、ただいま指し手がはいってまいりました」

 解説の五十嵐八段が、首を傾けて盤を見上げながら言う。

「大山名人、7四歩と指しまして、同桂と取らせて、8三玉としました」

 駒の操作を受け持つ佐藤四段が、片手に余るほどの大きな駒をてきぱきと動かす。そのあと中原がこう指せば大山はこう指して、それからああ指してこう取って、ああしてこうして、と軽快なテンポで指し手の予想を披露する五十嵐八段の言葉と、肝胆相照らすように佐藤四段の手が動いて、なんだか国際会議の同時通訳を思わせるような、それはみごとな阿吽の呼吸である。

「・・・と、こうして見てまいりますと、この歩は、こりゃ相当きつい歩です」

 よどみなく流れる五十嵐八段の解説に、うん、うん、と満足気にうなずく初老の紳士。小首をかしげて考え込む中年男。しゃがみこんだまま大盤を凝視している愛好家。表情は人さまざまだけれども、共通しているのは、知的好奇心にあふれた顔になっていることである。

”群集の顔”というものがある。とりどりの表情の個が集合して、そこに全体の顔が出来上るわけで、これがまた群る場所によって千差万別である。たとえば、競輪が終わって競輪場から吐き出されるおびただしい群集が発する何やら薄汚れたエネルギー。選挙の速報版を見上げる群衆のヤジ馬的表情。いま、大盤解説に耳を傾けている群集を見渡して、どことなく人品骨柄がよさそうな感じを受けた。つまり、いい感じなのである。

 三百人のうち、女性は三人。パンタロンが一人、ミニスカートが二人。パンタロンの娘さんには恋人らしき連れがあって、終始、その男性の腕につかまって、もたれるような姿勢でうっとりと盤を眺めている。将棋の解説なんて、うっとりと眺めるようなものじゃない、などと意地悪なことを言ってはいけない。将棋好きの恋人につきあって、わけもわからないのに駒の動きをうっとり眺めているというふうな光景であって、それはたいそう美しい光景のように私には思えた。亭主の好きな赤烏帽子。こういう娘さんはきっといい奥さんになるに違いない。

「いま、次の指し手がまいりました。中原十段が十二分考えて3五飛成。これに対して大山名人が2七馬・・・」

 大きな盤の大きな駒の向こう側に、名人と十段の顔がちらちら見えるようである。

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朝日新聞社裏手(現在の有楽町マリオン裏)で行われた名人戦大盤解説会は、有楽町の名物と呼ばれていた。

佐藤四段とは、故・佐藤健伍四段。

ネット中継も何もなかった頃の時代、大いに喜ばれたことだろう。

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江國滋さんの随筆によると当時の女性比率は1%。

現在の大盤解説会なら女性比率は10%を軽く超えているかもしれない。

素晴らしい将棋の世界になった。

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1972年というと、山口百恵やキャンディーズがデビューした年。1976年にはピンクレディーがデビューしている。

山口百恵のタレントとしての活動期間は1980年まで、キャンディーズは1978年まで、ピンクレディーは1981年まで。

中原誠十五世名人が加藤一二三九段に名人戦で敗れるのが1982年のことになるので、山口百恵、キャンディーズ、ピンクレディーが活躍していた期間は、中原誠十五世名人が常に名人だったことになる。

そう考えると、すごいことだと思う。