羽生善治三冠が最も印象に残っているタイトル戦(着物編)

羽生善治三冠が最も印象に残っているタイトル戦、着物編。

将棋マガジン1990年3月号、山田史生さんの、「第2期竜王戦七番勝負、激闘のあとを振り返る」より。

 四勝三敗一持将棋、大接戦、大熱戦の竜王戦七番勝負だった。わずかな差で島朗、竜王失冠、羽生善治の竜王奪取となったわけだが、その勝因、敗因はどこにあったのか。

 七番勝負の前、島の気迫はすさまじいものがあった。第一局前夜祭の席上「ぼくの一年間はこの日のためにありました」と言い切り、竜王戦に自分のすべてを賭けた。

「将棋界の逸材羽生君の初の大舞台、その相手になれて光栄」などと一見謙虚に思える発言もあったが、逆にそれは十九歳の挑戦者を強く意識した言葉ともいえた。

 前年、米長邦雄九段と第一期竜王戦を争った時とは、がらりと違う心境だったのではないか。第一期は「決勝に出られただけで幸せ。負けてもともと」だったが、今期七つも年下の挑戦者を迎え、その相手がいくら稀代の天才棋士とはいえ、”負けてもともと”というわけにはいかない。

”絶対勝つぞ”の気構えであったことは間違いない。

 一方の羽生はどうか。大棋士ほど初めて訪れたチャンスはモノにしている、とはいうものの、まだ十九歳、自分自身、まだまだこれから数えきれぬぐらいタイトル戦に登場するとの自信、手ごたえを感じていたであろう。竜王戦は最大のタイトルとはいえ、そんなに気負うことはない。もし今回負けても、それは今後のために経験を積んだことになり、マイナスにはならない。

 だから島ほどの”必死さ”はない。当然勝ちたいには違いないが、その心中はかなり余裕があったように思える。

 しかし、この島の必死さと、羽生の余裕がからみあって、七番勝負が大接戦になったこともまた事実。七番勝負が第八局までいき、最終局で羽生が勝ったということは、羽生の地力が島を上回ったということにほかならないが、ここまでくれば勝敗は単なる運命であったともいえよう。

(中略)

第二局(山形県天童市・滝の湯ホテル)は両者和服を着ての登場。若い二人だけにスーツの方がマッチしていいのではないかと思ったりしていたが、どうして、二人とも和服がよく似合う。

 しかし二日目午後、島が「和服はちょっと暑いのでスーツにしたいのですが、いいでしょうか」。別に着る物は強制でも何でもないので島だけ午後から洋服。島は「三局以降ずっとスーツにします」。

 このこと羽生にも告げた。「それなら僕も」という言葉を予想していたのだが、羽生は「僕は和服を着ますから」と言ったのにはむしろ驚いた。和服を一人では着れず手伝い役を必要とする羽生だけに、そんな煩わしさは避けるものと思っていたのだ。

 この辺りの羽生の気持ちを探ると、羽生自身、今後自分が将棋界の中心棋士となるであろうことを十二分に意識しているところからきている気がする。和服は将棋のタイトル戦の正式なユニフォームだと。今後何回もタイトル戦に出場することになるだろうが、それらに備え少しでも早く和服に慣れておいた方がいい。これも羽生の余裕の表れの一つか。それに羽生は十九歳にして何と和服を既に七、八着持っているのである。かなりの強豪棋士でも和服を用意していない人が多いというのに。

 話はとぶが、その羽生も”第八局”はスーツだった。さすが最終局だけに、勝負一本に絞りたかったのだろう。もっとも和服に関しては第七局開始前、ちょっとしたハプニングがあった。午前八時半に和服を着るので着付けを手伝ってほしいと、ホテルの女性に頼んであったのだが、わたしの言葉が足りなかった。

 女性の方は対局室の隣にある控室で着がえるものと信じ、そこで羽生の来るのを待っており、羽生の方はいつも通り自室で待っていたのだ。初めての対局場なので場所まできちんと指示しておかねばならなかった。私のミスで、慣れの恐ろしさを自戒している。羽生は九時十分前から着付けを開始。対局開始ギリギリにかけ足で対局室にとびこんできた。

 あるいは羽生は、これに懲りてのスーツ着用だったかもしれない。

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同じ号で、羽生善治竜王は自戦解説で次のように語っている。

 第1局は、初体験のタイトル戦、しかも公開対局ということでしたので、自分自身、相当緊張するのでは、と思っていました。それで不慣れな和服にはしなかったのですが、2局目以降は”和服で臨もう”と決めていました。

 最終局の場合は、対局場が都内のシティ・ホテルでしたので、和服で臨むのは変かなあ-と。それとやはり、最後ですので、着慣れたもので、という気持ちも若干ありましたから。

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一般的な男性が和服を着る機会は、結婚式で和装を選択した時だけに限られるだろう。

一般的ではない男性でも、なかなか和服を着る機会はない。

男性が和服を着ることがある職業・職種というのは、非常に貴重だと思う。