加藤一二三名人・十段(当時)「もっと酒を飲みましょう」

将棋世界1983年1月号、故・山田史生さん(読売新聞)の第21期十段戦七番勝負1、2、3局「中原無冠返上に一歩リード」より。

 第21期十段戦七番勝負の挑戦者は、リーグ戦を8勝2敗で突っ走った中原誠前名人と決まった。2年前、十段位を、そしてこの7月には名人位を奪われた宿敵 加藤一二三・十段・名人に対する復仇戦である。

 本稿を書いている11月末現在、3局戦った結果、中原が2勝1敗と一歩リードしているが、まだまだこの先、どうなるかはわからない。ともかく、3局とも両者気力をふりしぼっての激闘が展開されたが、その歩みをたどってみることにしよう。

名人戦の再現

 中原は十段リーグの第9局目で挑戦を決めたのだが、七番勝負に臨むにあたり、気の緩みを恐れたのだろう。無関係となった第10局も全力をあげて戦った。

 相手の米長棋王も立派であった。米長もリーグ残留は決まっており、無関係な将棋となったにもかかわらず、夜11時過ぎまで大熱戦を繰り広げたのであった。

 米長は著書「人間における勝負の研究」でも書いたように”無関係な勝負こそ全力をつくすべし”がモットーだが、それ以外に私には何か”中原に対する友情”のようなものが感じられた。米長はこの将棋、タテ歩取りで戦ったが”君が頑張らなければしょうがないじゃないか。加藤から十段を奪い返せよ”と呼びかけつつ、加藤がやってくるかもしれないタテ歩取りの練習台を買って出たような気がしたのだが、私の思い過ごしであったろうか。

 さて両雄のインタビュー。

 加藤十段は「これは山田さんに初めていうのですが、以前、20歳で名人挑戦者になった時、取材その他、余分な雑事にふり回された苦い経験があるのです。そこで今回は名人になったけれど、取材申し込みは8割方断りました。だからコンディションも上々です」といった。そして10月には、アウシュビッツの収容所で、人の身代わりとなって殉教したコルベ神父の列聖式に参列するため、神父ゆかりのポーランドや、バチカンに旅行、懸案のスケジュールをすませ、身も心も爽やかになっての登場だ。

 中原前名人は「タイトルが全部なくなるとは思いませんでした。身軽な意味もありますが、やはりチャンスなので、ぜひ十段奪回を目指したい」ときっぱり。リーグ戦の途中から、早々と七番勝負の日程を私に聞いて、手帳にメモしたりし、やる気十分の中原である。

第1局・中原、作戦勝ちで先勝

 第1局は10月27、28日、東京・千駄ヶ谷の旅館「玉荘」。

 先手番の加藤は序盤から闘志満々だった。まだ10手そこそこのうちから駒音高く指し進める。加藤は十段を保持、名人も奪って棋界の第一人者の地位についた。しかし、これらを”守る”という受身の姿勢でいては防衛はおぼつかない。常に積極的な挑戦者の気持ちでいたい、と思っているのではないか。その攻めの心構えが、序盤からの激しい駒音につながっているのではないか、と私には思えた。

 戦型は予想された通りの相矢倉。そして何と41手までは、名人最終局と同じ。このあたり、勝った加藤はともかく、中原の方が意地を通しているようで興味深いところ。名人戦では結果的に敗れたが、作戦が悪くて負けたわけではないぞ、との自己主張か。

(中略)

 昼食は加藤は1、2日目ともに、うな重。中原は1日目カツ定食。2日目は加藤の食べていたうな重がうまそうに見えたか「私もうな重」と仲よく同じものを食べた。

 対局中に相手のうしろから盤上を見ることを、あれこれいわれるようになった加藤、最近はほとんどやらなくなったが、そのかわり昼食休憩後の再開前、少し早めに対局場へ現れ、腕を組んで中原側からじっと盤面をにらんでいた。

(中略)

第2局・白熱の激戦、加藤制す

 第2局は11月11、12日、熱海の「美春館」。

 近いところだし、交通の便もいいので自由参加にしたが、前日4時半頃、熱海駅を降りると、中原前名人、立会人の広津久雄八段、それに山本武雄八段が私を待っていてくれた。

 もう一人の立会人・関根茂八段と記録の石川陽生二段は先着、加藤十段は6時頃の到着だった。

(中略)

  翌11日。まだ雨が残っている。広津八段が「時間ですので中原さんの先手でお願いします」と合図。気分が盛り上がるまで、盤側と世間話をしながら数分過ごすことはよくあることだが、この日の中原は盤上をじっとにらんだまま無言。初手の7分は異様に長く感じる。これは何かありそうだ、と思っていたら案の定、初手▲7八金。この形は相手に振飛車にされると悪型になるので、プロの対局にはまず現れない。これは明らかに中原の挑発である。

 加藤の振り飛車は、坂本一裕氏の調べ(近代将棋12月号)によると昭和32年に4局、35年に1局あるのみ。つまり20年以上振り飛車をやったことがない。こういう加藤に、中原は「振ってごらんよ」といっているのだ。

 対局終了のあと、中原はいたずらっぽい顔で私にいった。「カッとするかなと思っていたら、案外冷静なので、こっちも普通にいきました」と。加藤にカッとした様子が見えたら、また二の矢の用意があったらしいのだ。

 このあたりは先勝している中原の余裕か。

 しかし加藤も冷静になるまでに14分の時間を要した。20数年ぶりの振り飛車も考えたに違いない。それが見られなかったのは少々残念な気もしないではないが―。

 さて局面は意外や、腰掛銀の対抗となった。腰掛銀は、20年後半から30年初めにかけ、よく戦われた戦法だが、激しい将棋になりやすく、また筋に入れば強い弱いに関係なくやられてしまうので、危なくてしょうがなく、強い人たちが息の長い将棋を望み、避けるようになった―、とこれは広津八段の解説。

ところで将棋連盟その他から、電話で指し手を聞いてくるが、私が▲7八金というと「最初から教えて下さい」という。「それが第一手だよ」と答えると、皆「えー」と驚くので、こっちの方が愉快で、得意な感じになってしまう。

(中略)

第3局・中原快勝でリード

 第3局は11月25、26日に「京都センチュリーホテル」。十段戦も21期を数えるが、七番勝負が京都で行われるのは今回が初めて。

 これは関西在住棋士が七番勝負に登場してこなかったためでもある。

(中略)

 立ち会いは京都在住の灘蓮照九段と、京都からほど近い大阪府高槻市在住の桐山清澄八段。記録は灘九段の愛弟子・神崎健二二段。

 前日夜は僧職でもある灘九段の霊界の話などに耳を傾けつつ、純和風の京都料理の夕食をとった。

(中略)

 加藤が▲5五銀と出た所で封じ手時間。次の手を中原が封じて1日目を終わった。ここで注目されるのは消費時間。中原4時間34分に対し、加藤2時間48分。加藤の方がかなり少ないが、こんなことは珍しい。これは何を表しているのだろうか。

 この日の夜は気分を変えて主食堂で洋食のフルコース。しかし灘九段と神埼二段の師弟は、食事終了直後、ラーメンを食べに行こう、と外へ出ていった。洋食の量は十分あった筈だが、ナイフとフォークの食事では、食べた気がしなかったのかもしれない。

 2日目。中原の封じ手は△8六歩の突き捨て。

(中略)

 加藤の玉は粘りの利かない形で、何とまだ薄明るい夕方4時31分の終局。いつになく加藤は2時間42分も残しての敗退だった。

 夕食のナベをつついたあと、早い終局で精力をもてあましたか、珍しく加藤は進んで「もっと酒を飲みましょう」といいだし、ホテルのバーで水割り片手に論談風発、山本武雄八段、私の三人で何と深夜零時半までしゃべりあった。

 めったに胸の内を言わない加藤が、将棋に対する思いや、有力棋士の個人評、修行時代の思い出などを話してくれたのは、担当記者として幸いであった。差し支えない部分は、いずれ紹介する機会もあろうと思う。

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加藤一二三九段が名人位を獲得した数ヶ月後の十段位防衛戦。

中原誠十六世名人が9期連続で保持してきた名人位を失い無冠になった時期でもある。

故・山田史生さんの筆が冴える。

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竜王戦の前身である十段戦、挑戦者決定リーグ戦は6人で先後一局ずつ指す方式で10回戦まであった。また、七番勝負の持ち時間は9時間だった。

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コルベ神父はポーランド生まれ。長崎にも宣教に訪れたことがある。

1941年、ナチスは、コルベ神父の説くカトリックの教えとナチスの思想は相反するとして、コルベ神父は収容所に送られた。

ある日、同じ班の囚人から脱走者が出たため、連帯責任として、見せしめのために同じ班の中の10人が処刑(餓死刑)されることになっていた。

コルベ神父は、その中の一人の妻子あるポーランド人の身代わりとなって殉教している。

コルベ神父について(聖コルベ館ホームページ)

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この時代は、角換わり腰掛銀は斜陽戦法とされ、ほとんど実戦には現れなかった。昭和30年代以降30年以上マイナーな位置づけだった角換わり腰掛銀に新しい息吹を与えたのは、この数年後の谷川浩司九段だった。

 

 

 

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