鈴木大介四段(当時)「研修会の仲間には行方君とか三浦君がいて、彼らは奨励会へ行くというので自然にそういう方向へ」

近代将棋1994年12月号、「棋士インタビュー 鈴木大介四段 地獄から天国へ」より。

近代将棋同じ号より。

死まで考えた

四段になってなにか変わりましたか?

「驚いたのはその日のうちに大きな花束が2つも届いたことです。それから昔、稽古に行ったようなところからもお祝いをいただいたり、稽古している人の知人で将棋を知らない方から言われたり。ぼくが考えていないような広範囲の方が、見守ってくださってとても嬉しかった」

三段リーグは何期目ですか。

「5期いました。成績は、10-8、12-6、10-8、12-6、14-4でした」

いつも10勝以上ですね。ところで前期は快調に飛ばしていたのが、終盤に4連敗して、自滅したような形になっていますけど、なにが原因だったのですか。

「原因はよく分からないまま、あっという間に地獄へ落ちたような気持ちになりました。あと4つのうち、2勝2敗ならばどうにか、悪くても1勝3敗でも上がれるとか、昇級ラインはどのくらいなんて星勘定していたのですが…今までの自分の勝率からいっても、このくらいかなという目安を立てていたのですが、まったく考えられない結果になりまして」

今年の巨人みたいですね。過去のデータから判断して99%確実だろうというのが、あれよあれよで最終決戦まで行ったからね(笑い・この日は決戦の前日)

「僕も巨人ファンなんですが、まったくそのとおりです。はじめ2連敗したときはまだ心配していなかった。僕は連敗ってあまりしてませんから。どんなに悪くても1勝はするだろう、と。ところが当日第1局目はうまく指していたのに突然プッツンして、切れちゃった。9割5分までうまくいっていた将棋です。ぼくは振り飛車党ですが、全ての駒がさばけて理想形でしたのに。2局目は悪いのを死にもの狂いで頑張って勝ち筋が見えた。それなのに踏み込めずに長いほうを選んでおかしくしちゃった」

ショックは相当でしょうね。

「もう頭の中は真っ白。帰り道で死のうかと思った。ほかに何も考えられない状態で家に帰ったんです。父とも死ぬ話をしました」

 それでどうやって立ち直ったんですか。

「立ち直れないまま、次のリーグが始まったんです(笑)。でも、中卒でここまでやってきて、もう勝つしかないんじゃないかと思うようにはなりましたけど」

次がいきなり連勝しましたね。

「ええ。ツイていました。4連勝したので前のことは吹っ切れました」

白星が一番効きますね。

「そうですね。また負けていたら、ちょっと悲惨です。でも平均して勝っているんだから、いつかは絶対上がれるという自信はどこかにありましたけど」

4連敗で上がれなかったこと自体と、抜かれる辛さもあるんでしょうね。

「あります。本当はそちらの辛さのほうがあります。なんでオレが上がらずにアイツが上がるんだみたいな…」

実戦オンリー

大内門下ということですが、割合進学を勧める師匠だと思うのですが、進学はどうしてしなかったのですか。

「初段になったのが14歳、中2だったのですが、高校へ行かなければ四段になる自信はあったので、師匠とも相談の上でそう決めました」

お父さん(漫画家の鈴木康彦氏)はどうでしたか。

「父は自由業なので自分の子ははじめからサラリーマンになってほしくないらしく、学校の勉強よりもいろいろ体験をさせていたほうです。高校へ行かなくても将棋一本でいいという考えでした」

進学をしないで伸びましたか。

「それが初段で2年10ヵ月も低迷して、Bクラスへ4、5回も落ちました。どうしてというと、初段まで実力以上にうまく行きすぎたことと、上に強い人がたくさん溜まっていたからじゃないですか。丸山、豊川、真田先生なんかがいまして香落ちで全然勝てなかったんです。それで強い人が上へ上がってくれてやっと実力もついて上がれたような」

大介さんはどういう勉強法ですか。

「ぼくは実戦オンリー。定跡とか棋譜並べとか詰将棋なんかもあまりやらない。小学校3年くらいから将棋をはじめたのですが、そのとき父が、365日将棋指すんなら将棋指すんなら将棋道場へ通ってもいいと言うんです。それから今日まで毎日指しています。連盟へ用で来ても、級位者をつかまえて将棋指すし、朝起きると、その日の将棋の予定を立てるんです。電話で指せる相手を捜して、中野サンプラザあたりで指すんです」

なんでサンプラザ(娯楽室に将棋が置いてある)なんですか。

「あそこだと人に見られませんから。連盟だとちょっと。なんか努力しているようなとこ見られたくないような(笑)恥ずかしいでしょ。みんなでわいわいやるより個人的にやったほうがいい」

三段リーグ改革は?

三段リーグにいるときは皆さんは改革してほしいと思っているんでしょ。でも自分が四段になると、あれでいいんじゃないか(笑)と変わるそうですが。

「そうですね。ぼくなんかも昔の勝率制ならば4回くらい上がっています。ですから心の中では改革してほしいって思っていました。でも今は、棋士会に出てもそんなこと主張しないでしょうね(笑)。自分が通ってしまうとそう思う」

三段リーグの人は成績が悪くてもよくても実力は紙一重と聞きますが。

「はい。今期ぼくが負かされた人は、現在の勝率は悪い人が多いです。ぼくより絶対強いと思った人でもやめたひとはたくだんいます」

どこが違うと思いますか。

「悪いけれど、努力が足りないとしか言いようがない。ぼくが二段のとき2級の子に将棋指そうと言ったら断られたことがありましたが、結局こういう人は心構えが甘いとしか言いようがない。ぼくは実戦の局数だけは負けないつもりです。中には努力しても上がれないという人もいるのでしょうが…」

三段リーグでは実力があまり変わらないということになると、運とかツキが作用すると思うのですが、ツキの運用にはなにが大切だと思いますか。

「普段の生活態度と努力…」

月並みですけど(笑)そこへきますかね。4連敗してふつうは腐るところを次期も頑張った鈴木さんらしい発言ですが。話を子供のときに戻して、プロを意識したのはいつごろですか。

「小学校5年のときに小学生名人になりまして、そのときからです。研修会には小4から通っていまして、仲間には行方君とか三浦君がいて、彼らは奨励会へ行くというので自然にそういう方向へ。はじめぼくは凄く弱かった。研修会のD2組からスタートしたんですが、勝てなくて、負けてよく泣いて母に電話して迎えにきてもらったり。父は厳しかったんですが母は甘くて。奨励会へ入っても5級で1年くらい低迷して、とてもプロになるような感じじゃなかった」

 お父さんは大介君が5、6級でやめて強いアマチュアとして将棋の相手をしてくれればいいと思っていたようですね。

「そうでしょうね。ぼくもはじめは素質がないと思っていましたから(笑)。奨励会に入るとき、父は賛成したけど母は泣いて反対した」

母子ともによく泣きますね(笑)。大内門下へはどういう縁ですか。

「ぼくが生まれる前から父が大内会で将棋を教わっていまして、男の子ができたらプロ棋士にしようって思っていて。ですからぼくの名前も先生の名前から大と介の一字ずついただいて付けました」

あ、それで大介なんですか。やや星飛雄馬の父子的な部分があるんですね。

「そうですね。ぼくは少年野球チームに入っていまして、家の前がグランドなんですよ。3年の終わりころから将棋道場へ通うようになって、家の前で皆が野球をやってるのを見ながら行くのが辛かったですね。ですから走って行きました」

それから神奈川の内田昭吉さんの門下になったんですね。

「はい。今の奨励会でもずいぶんいますよ。勝又さんをはじめとして。真剣に将棋をやる雰囲気がはじめてだったので。徹夜で指したり基礎はあそこでつけてもらいました。今回あいさつに伺ったら喜んでくださって」

いろんな人の手を経ているんですね。

振り飛車システム

四間飛車が得意と言いますと、プロではどんな人の将棋を勉強しますか。

「大山全集、小林先生のスーパー四間飛車、櫛田先生の世紀末四間飛車、森安先生の実戦集などは勉強しています。なかでも森安先生のはおもしろいので、棋譜よりも図面と文章を拾い読みして…これじゃ、ただのアマチュアですね(笑)」

自分の棋風はどんなふうにとらえていますか。

「櫛田先生に考え方が近いような気がします。システム的な指し方です。左美濃ならこういう、イビアナならこれ、というように対策を決めて指す。そうすれば序盤に時間を使わずに指せますから」

それじゃあ、序盤は早指しですか。

「はい。1手目、3手目に長考する方がいますが、ぼくらには考えられない」

でもシステム派は勢いに乗ると怖いけど、いったん歯車が狂うともろい面もあるんじゃないですか。

「ええ、あります(笑)。知っている局面はいいんですが未知の分野に入ったときに弱点が出ますね。今後の課題にします(笑)」

ずいぶん正直だけど、仲間同士でこんなに正直だと損でしょう。

「奨励会仲間ではほとんど将棋の会話はしませんし、ウソ、誇張、冗談が大部分ですから(笑)」

将来の夢は?

「四間飛車のシステムを確立したいですね。鈴木システムとか(笑)。それからタイトルも獲りたい、七冠王も目指したい。でも今は羽生先生と当たることさえないでしょうね(笑)。テレビ棋戦で運よく上位に上がったときくらいかなあ。あとは挑戦者にならないと絶対当たらないですから。まだ一局も公式戦を指していないのでプロの強さが分からないんですよ」

とっても素直に語った、新鮮印の大介四段でした。

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「もう頭の中は真っ白。帰り道で死のうかと思った。ほかに何も考えられない状態で家に帰ったんです。父とも死ぬ話をしました」

この時の鈴木大介三段(当時)は、将棋会館を出る時までは気丈だったが、出た後から泣き通しだった。

鈴木大介新四段(当時)「ああ、これで一生、大好きな将棋を指していけるんだな」

「父とも死ぬ話をしました」が凄絶すぎる。

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「4連勝したので前のことは吹っ切れました」

棋士にとっても奨励会員にとっても勝利が何よりの薬。

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「お父さん(漫画家の鈴木康彦氏)はどうでしたか」

鈴木康彦さんは、NHK「みんなのうた」やテレビアニメなどで作画・作画監督を行っていた。将棋世界で連載を持っていたことがある。

バンコクの広島の親分

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「電話で指せる相手を捜して、中野サンプラザあたりで指すんです」

当時の中野サンプラザには、中ほどの階に、1日500円で将棋や囲碁などができる娯楽室のようなコーナーがあった。

ここでは、奨励会員の研究会なども行われていた。

平成の初期の頃、何度か行ったことがあるが、10代に見える少年たち8~10人がよく将棋を指していた。

中野サンプラザの研究会

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「ぼくは実戦の局数だけは負けないつもりです」

鈴木大介少年は、奨励会に入るまでの実戦数が最も多いと言われていたほど。奨励会に入ってからも誰にも負けないほどの実戦数だったのだから、とにかくすごい。

「最も実戦の数が少なくて奨励会に入った」棋士と「最も実戦の数をこなして奨励会に入った」棋士

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「小学校5年のときに小学生名人になりまして、そのときからです。研修会には小4から通っていまして、仲間には行方君とか三浦君がいて、彼らは奨励会へ行くというので自然にそういう方向へ」

やはり、切磋琢磨しあうライバルの存在は大きい。

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「ぼくの名前も先生の名前から大と介の一字ずついただいて付けました」

内延九段からの二文字。

生まれた時から、師弟関係が約束されていたようなものだ。

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「四間飛車のシステムを確立したいですね。鈴木システムとか(笑)」

この頃は藤井システムが生まれていなかった時。矢倉の森下システムが、システムとつく唯一の指し方だった。

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鈴木大介九段は、昔から奨励会員の兄貴分のような存在で多くの奨励会員から慕われてきたが、このような奨励会時代の苦しい経験が、奨励会員への優しさに結びついているのかもしれない。

 

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