東海の若大将

故・板谷進九段の温かさ。

将棋世界2002年4月号、杉本昌隆六段(当時)の「四段昇段の一局 初心を忘れずに」より。

 奨励会、三段の頃の思い出は尽きない。今から思うと滑稽なことも多いが、それでも当時は精一杯その時を生きてきた。

 三段になってから始めた一人暮らしも楽しかった。たとえ、財布に300円しかない日はあっても、それを夕食代に充てるか◯日ぶりの銭湯代に充てるかで真剣に悩んだあの日。

 順位戦の記録後の深夜、仲間4~5人で入った中華料理店。やはり対局後の板谷進八段(師匠)が突然入ってきて、緊張している私達を横目に「この子達の勘定だけ頼む」と店員に代金を支払い、「じゃあお休み」と風のように去っていくのを見て、「カッコイイ」と心から思ったあの日。

 弱い物いじめのような三段リーグ制度に不信感を持ち、それでも「絶対四段になってやる」と心に誓い、そしてこんな制度を作った先輩棋士達と対戦する立場になったら、必ず「天誅を食らわすんだ」と息巻いていたあの日。

 色々な意味で、あの頃は「若かったな」と思う。

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将棋マガジン1991年4月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 小林健二 『体力将棋』の継承者」より。

 小林は香川県高松市出身。地元に紹介者がいて、1972年、14歳で板谷のもとに入門した。東京の将棋会館の塾生になったが、1974年2月に胃潰瘍で連盟近くの病院にかつぎ込まれた。もともと丈夫でなかったうえに、精神的に参っていた。見かねて板谷が「名古屋にくるか」と手をさしのべた。小林も師匠の好意に甘えた。

 当初は板谷家で内弟子生活を送ったが、ほどなく板谷が近くにアパートを借りてくれた。以後も、毎朝、師匠宅に行き、午前中は師匠の仕事を手伝い、午後は八時半まで板谷教室で代稽古をつとめた。そのころの思い出―

「師匠がよく焼肉屋へ連れていってくれたんです。自分では焼肉なんか食べられる身分じゃなかったですから、たいへんありがたかったんですが、師匠はミノとかタンとか全部、注文しちゃうんです。それで”健二、全部、寄せ切ろうな”って。残さず食べようというわけですが、師匠はお酒を飲んでいて、あんまり食べないんですね。そう食べられるもんじゃなし、もう悲鳴をあげながら食べたものです。焼肉のせいばかりでなく、名古屋にきてから、ふしぎに体も丈夫になりました」

 生活の面倒は、いっさい板谷がみてくれた。小林は「師匠には、いくら感謝しても、したりません」といっている。

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板谷進九段は、名古屋に将棋会館を建て、奨励会をつくり、公式対局も行うのが夢だったが、志半ばにして倒れてしまう。

1988年、47歳の若さだった。

「東海の若大将」と呼ばれていた。

NHK将棋講座2012年8月号、「棋士道~弟子と師匠の物語~」でも、小林健二九段が師匠との思い出の数々を書いている。

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「この子達の勘定だけ頼む」から「じゃあお休み」の流れは、芸術的といっても良いくらい感動的だ。

健二、全部、寄せ切ろうな」も最高。