将棋マガジン1994年12月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 行方尚史 羽生時代を脅かす新勢力」より。
ギャンブルにのめりこんで
前述したインタビュー記事を読んだとき、私は正直いって、ちょっと意外な感じがした。情報不足のせいか行方が、そんな痛快な発言をするとは考えられなかった。
それまで、私が観戦した対局で、たしか、いちど行方が記録係をつとめたことがある。言葉を交わしたわけではなく、変わった名前なのでおぼえたけれど、それ以外は、とりたてて記憶になかった。しいていえば、快活な青年で、都会育ちの感じもした。
やがて、三段リーグで昇段候補と目されてからも、私の頼りない印象では、この青年は羽生、佐藤、森内の系列に属する秀才タイプとばかり思っていた。問題の発言を読んだときでさえ、この男は、もしかするとユーモアの才があるのではないかと深読みもした。
しかし、すこし頭を働かせれば、読みちがいに気がつく。行方は三段リーグこそ3期で抜けたが、奨励会を卒業するのに7年かかっている。3年数ヵ月で駆け抜けたエリートたちと同列におくことはできない。
7年もいれば、脱落していく先輩を何人もみている。成績が低迷していれば、そこに自分を重ねてしまう。行方もいっている。
「つらいですよ。つらすぎて、だんだん麻痺してくるんですね」
つらくても将棋からは逃げられない。親の家計に負担をかけているのを承知で、東京生活をつづけている。棋士になれなかったら、帰るところがないという意識もある。つらさをまぎらわすものがあれば、つい手を出したくなる。
三段リーグにはいったころから、競馬とパチンコにのめりこんだ。パチンコといっても、朝から夜まで、ぶっとおしだから、ギャンブルと変わりがない。10万円勝った翌日に10万円負けたりする。仕送りを受けている身だから、とうぜんカネに困る―
「後ろめたいんですけど、なんか理由をつけて親に無心しましたよ。親は泣きますよねえ。ああ、情けない、いまにして思えば……」
三段リーグの二期目は次次点で終わったが、調子は上向いてきた。三期目は、なにがなんでも昇段しなければならない理由があった。翌春には妹さんが大学にはいる。実家は洋服の仕立業で、さして裕福ではないことは知っている。ふたりも仕送りさせるわけにいかない。行方は四人きょうだいの長男で、家業は継がないことにはなっているが、やはり長男の意識はもっているという。
「ぼくがコケちゃったら、下がたいへんだろうなと思ってました。ぼくにできるのは、昇段して親の負担を軽くすることぐらいですからね」
こういう生活感とでもいえるものが、自宅から奨励会に通い、しかも、優等生で卒業したエリート組にはない。
奨励会時代から生活感を背負った棋士が、都会出身のエリート組と対等に渡り合う日がくれば、将棋界はもっとおもしろくなると思う。
もっとも、行方の場合、一大決心をして、3期目にのぞんだが、競馬やパチンコをやめたわけではなかった。全勝が途切れたときに、このままでは調子が落ちてきそうな不安を感じて、ギャンブルと縁を切った。どうやら、潮時だったらしい。
「やっぱり、将棋のほうがずっとおもしろいんですよ。ギャンブルは麻薬と同じで、やめようと思って、やめられるもんじゃないんですが、しぜんにやめられましたね」
羽生さんは優等生じゃない
行方は子どものころから、人と変わったことをしたいという願望が強かったという。もともと学校の勉強が好きでないところへ、将棋をおぼえた。棋士を目ざしてからは、いっそう勉強が嫌いになった。
私が担任教師なら、学籍簿の性格欄に「情緒不安定」と書くだろう。これは、褒め言葉に近い。個性を開花させようとする生徒が、いまの学校教育の常道におさまるはずがない。
中学1年から、東京生活がはじまる。大山康晴十五世名人の弟子になることも決まっていた。賄い付きの下宿は、大山家にも近かった。本人は青雲の志を抱いているし、天下の名人が親代わりの役をつとめてくれる。両親も安心して、息子を送りだしたにちがいない。
息子は学校に行かない日もあるくらい、将棋の勉強に熱中した。半年後、試験に合格して、奨励会に入った。前途は洋々―奨励会に7年もいるとは夢にも考えていなかった。
ときおり師匠の家を訪れると、やさしく迎えてくれた。いろいろアドバイスも受けたが、成績が低迷すると、足も遠のいた。おまけに、下宿が地上げに遭って、ふつうのアパートに引っ越す羽目にもなった。行方もいっている。
「中学生がひとりでアパート生活をするというのは、やっぱり異常ですね。よほどしっかりしてないと、おかしくなりますよ」
両親にも、師匠にもすすめられて、いちおう都立高校に入学したが、3ヵ月で退学した。中学中退がカッコいい、などとうそぶいていたくらいだから、こうなるしかなかったようだ。大山夫人に「しょうがないわね」といわれて、いよいよ大山家の敷居が高くなった。
ギャンブルに入れ込んでからでも、将棋の勉強はつづけた。行方は遅刻グセがひどいので、研究会に誘ってもらえない。人と一緒にいると疲れるので、結局、ひとりで盤に向かう。佐藤竜王が一日7時間、勉強すると聞いても、行方はおどろかない。
「ぼくも時間的にはそのぐらいやってるかもしれません。ただ、ぼくの場合、それが自分にとって、全部エキスになっているかどうか、疑問ですけどね」
2年ほど前から、羽生の将棋を並べはじめた。それが同年代の棋士、奨励会員の主流になっているという。羽生について、こういっている。
「ぼくは、羽生さんは優等生じゃないと思っています。記録をとっていても、雰囲気が凄い。命がけで指している感じがする。それなのに、優等生という言葉で、ひとくくりにするのは失礼ですよ」
竜王戦では、羽生の将棋を勉強してきただけに、羽生にたいしてだけは、やはり特別の感情があったという。結果については、自省の弁が終始する。
「負けたのは悔しくないんですけど、内容に悔いが残ります。一局目は本当に情けなかった。あんな将棋で”挑決”まで行っちゃあ、ダメなんだなと思った。対応力がぜんぜん備わっていないんです。羽生さんの力を引き出せなかった」
敢えて口に出すまでもなく、行方は目標を羽生一本に絞っている。行方だけではない。同世代の四、五段陣は、いっせいに羽生を追いかけはじめたといっていい。
願わくば、行方には、いまのままでいてもらいたい。異質の棋士が羽生に挑戦してこそ、興味津々なのだから……。
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「つらいですよ。つらすぎて、だんだん麻痺してくるんですね」
「つらさをまぎらわすものがあれば、つい手を出したくなる。三段リーグにはいったころから、競馬とパチンコにのめりこんだ」
自分の中のバランスを取るために、どうしてもこのようになってしまうことがある。
内容は異なるが、仕事が忙しい時ほど、飲みに行くことが増えるというのも、自分の中のバランスを無意識にとっているから。
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「パチンコといっても、朝から夜まで、ぶっとおしだから、ギャンブルと変わりがない。10万円勝った翌日に10万円負けたりする」
パチンコは、フィーバーしなければ1玉4円の台では5分位で1,000円が消えていくという。1時間で12,000円。運が悪ければ8時間強で10万円が溶けてしまう。
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「後ろめたいんですけど、なんか理由をつけて親に無心しましたよ。親は泣きますよねえ。ああ、情けない、いまにして思えば……」
切なさに胸が締め付けられる。
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行方尚史九段の奨励会時代の話は、どれもが鬼気迫る思いに包まれている。
→行方尚史三段(当時)「もし奨励会を退会するようなことになれば、ぼくは死ぬ以外に無い」
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「ぼくは、羽生さんは優等生じゃないと思っています。記録をとっていても、雰囲気が凄い。命がけで指している感じがする。それなのに、優等生という言葉で、ひとくくりにするのは失礼ですよ」
たしかに、「優等生」という言葉は良い意味では使われない場合もある。
行方四段(当時)の名言だと思う。
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「負けたのは悔しくないんですけど、内容に悔いが残ります。一局目は本当に情けなかった。あんな将棋で”挑決”まで行っちゃあ、ダメなんだなと思った。対応力がぜんぜん備わっていないんです。羽生さんの力を引き出せなかった」
「羽生さんの力を引き出せなかった」も名言だ。
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「願わくば、行方には、いまのままでいてもらいたい。異質の棋士が羽生に挑戦してこそ、興味津々なのだから……」
もちろん、行方九段は進化を続けているが、この当時から変わらないものも数多く持ち続けていると思う。