将棋世界1996年6月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 高島弘光八段 筋を通して生きる」より。
棋士生活34年
鈴木 棋士になってからは順調でしたか。
高島 20歳で四段になって、直ぐに結婚したんや。C2も1期で抜けたんやが、C1が長くなってしまった。
鈴木 どんな人にも壁があるんですね。そういえば、先生は若い頃長崎に住んでいましたね。
高島 そう、24の時にね、大会の審判に行って、「棋士が住んでくれると嬉しいんですが」と言われ、3年家族で住んだ。将棋のこともあったけど、若いからできたんやね。
鈴木「五段時代は大活躍でしたね。
高島 言われた図面もその頃のにしたんや。サンケイの準決勝で大山さんとのが自慢の図で、残念な方は決勝の中原さんとのやつ。
鈴木 五段で挑戦者争いは当時としての記録ですね。
高島 1図で▲9五飛と自陣飛車を打って良くなったと思った。後は▲9六香から▲9八飛がキビしい。
鈴木 2図も必勝で直前の▲2四歩では▲2五香で勝ちだったと雑誌で読みました。
高島 ▲2四歩と打った瞬間、悪手だと思った。▲2五香で終わってるとね。
鈴木 また成り捨てて▲2五香でいいんではないですか。
高島 それは出来ない。棋譜は永遠に残るからね。そんなことまでして舞台に立ちたくない。別の手でと思って▲2八香としたが、後の△8五角が攻防の妙手やったな。
鈴木 意味なく歩を成り捨てたり、頭金まで指している若手に聞かせたい話ですね。
高島 この気持は今でも変わってない。将棋指しは、いい棋譜を残すのが仕事やから。
鈴木 ただ、残念とかの気持ちはありませんか。
高島 それはないな。若い中原さんが勝ってきて、これも天の運命や、と思う。A級も少し頑張ってればと思うが、これも仕方ない。棋士は戦った所を誇りに思う事が大切や。たとえ四段でも、そこで必死にやったんやから。
鈴木 確かにそうですね。人と比べる必要はありませんね。後、思い出として何かありますか。
高島 長崎はB2に上がった27歳までなんやけど、大阪で指してまた東京に行って帰りに大阪で指す、なんてことも結構あった。東京では5日で4局指したこともある。加藤ピンが千日手を狙ってくるんや(笑)。持時間が7時間で「もう、かんべんしてくれ」ゆうたんやけどな、ネクタイしごいとるだけや(笑)。
鈴木 他の先生方はどうでしたか。
高島 みんな自分が強いと思うとる。昼連盟に行くとな、勝った先輩が早よから来てる。「岡崎さんどうしました」と訊くとな「この間、成銀の頭に金打ったったら山田(道美九段)が飛び上がってな」と言う。「ほう、どんな将棋ですか」と訊くと、「見たいか」ゆうんや。見せたくてうずうずしとるのにな。
鈴木 その気持ちは分かりますね。
高島 三ベン位並べると「どや、その辺で腹ごしらいしよ」と食べに行って、後はキャバレーや。飲みながら10回位頭金の話を聞いて、帰りに「どや、これで君も少しは将棋が強うなったやろ」と岡崎さんがゆうてな。クラスは同じやったけど、「ハイ、なりました」ゆうんやけど、他の人も皆同じだったな。人はいいにゃけど、飲んで最後は「オレの方が強い」ゆうてケンカや。
鈴木 昔の先生方を思い出しますね。後、角田先生や北村(秀)先生とかも。高島一岐代先生も飲まれたのですか。
高島 わしが四段になる少し前に先生は引退して46、47歳やったかな。先生の対局があると星田さんや二見さんが現れて、終わると一杯飲みにいっとった。A級やから羽振りがよさそうやけど、みんなにおごった後は奥さんが質屋に行っとった。ミエもあったにゃな。それが全部わしの親父の所に来てたんや。
鈴木 色々あったんですね。先生は29歳でB1に上がられて、テレビの準優勝が2回と棋王戦のタイトル戦に出たりで活躍が続きますね。
高島 40歳くらいで、加藤さんとテレビの決勝を争ったあたりが指し盛りやったかな。今は弱なった。
(つづく)
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この棋聖戦挑戦者決定戦の局面は、あまりにも有名。
勝負にこだわるか、信念にこだわるか、どちらが正しいというものでもないが、自分にとって好ましくない状況になろうとも、自分の信念を貫くところが感動的だ。
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加藤一二三九段が、「ネクタイしごいとるだけや」というのは、とても雰囲気が出ている。
「ほう、どんな将棋ですか」「見たいか」の様式美も絶妙。
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故・高島弘光八段が若かった頃のキャバレーは、言ってみれば店の大きなキャバクラと思えば良い。
東京で言えば、銀座三丁目の「白いばら」がオールドファッションかつクラシックなキャバレーだ。
入り口に日本地図があって、その日に出勤している女性の名札が出身都道府県別に掲示されている。
私は数回しか行っていないが、なぜだか北海道出身の子、岩手県出身の子を指名した記憶がある。
それぞれ、札幌に出張した直後、盛岡へ行った後だったはずだ。
女性のコスチュームはフランス人形っぽく、店内はやや暗め。
二階の席からギターを持った小林旭が歌いながら階段を降りてきて、一階の席の悪党どもと乱闘になる、といったような昭和30年代の日活無国籍映画の舞台にピッタリな雰囲気。
関西将棋会館があった北畠は、阿倍野のすぐ近所なので、いろいろな店に行きやすかったのだろう。