郷田真隆四段(当時)のエッセイ風自戦記

近代将棋1991年2月号、林葉直子女流王将企画、「フレッシュ、新人棋士の”この場面”」より、郷田真隆四段(当時)の「自分の将棋を指したい」より。

 早いもので、棋士としてスタートしてから8ヵ月の歳月が流れた。

 四段になったばかりの頃は、地に足がついていないという感じで盤と対していたが、今では落ち着いて盤に向かうことができる。

 今わりと好調なのは、そんなところにも一つの原因があると思う。

 6月19日。順位戦初対局の日。

 初戦の対戦相手は小林(宏)五段。初戦から強敵であるが、今期の目標は昇段。必勝の気合で臨んだ。

 が、その結果は―。

 1図はその終盤戦。今、小林五段が▲2五桂と打った局面である。

photo (26)

 譜はここで△8六歩としたために、▲5四飛と出られて綺麗に負けである。

 ▲5四飛と指されてから、残り時間16分を使って懸命に読んだが、時すでに遅しだった。戻って△8六歩では、△5五歩▲4六飛の交換をしてから△8六歩とすれば、むしろ僕の勝ち筋だったと思う。

 悔しかった。納得のいかぬ敗戦でもあった。(納得のいく敗戦なんてないかもしれないけど)何故4分しか考えずに△8六歩としてしまったのだろう―。

 しかし、この日僕はプロの厳しさを身をもって感じることができた。そういう意味で、僕にとって大きな意義のある一局だったと思う。また、小林さんは終始正座のまま、背筋をピンと伸ばし堂々とされていた。先輩の、こういう良いところは見習わなければならないと思った。

 11月9日。棋聖戦本戦の準決勝。

 対戦相手はB級順位戦でトップを走る小林健二八段。

 小林先生には以前、先生がNHKの講座の講師をされていた頃、まだ奨励会だった僕と、中村七段と塚田八段とで研究会を開いて頂き、とてもお世話になった。そしてそれだけではなく、例えば、将棋界の今後についてとかのタメになる話を聞いたり、色々な所に連れていって下さったりもした。

 (僕はまだ未成年なので、女の子がついてくる店でウイスキーを飲みながらカラオケを歌ったりはしません。たぶん・・・・・・)

 そういうわけで、良く知っている先生なので対局するに当たって不安はなかった。

 大きな一番であるが、大きな一番であろうとなかろうと、相手が誰であろうと自分の将棋を指すのが僕のやり方なので、普段と同じ気持で盤に臨んだ。

 小林先生の四間飛車は予想通りだった。

 というわけで、作戦は事前に色々と考えた。棒銀、5七銀左戦法、左美濃、居飛車穴熊等々。が、結局6筋位取りに落ち着いて2図。

photo_2 (18)

 僕が▲6八銀上と上がった局面である。(2図)ここで僕はどう指されるのか見当がつかなかった。石田流に組むのが自然だが、△3二飛なら▲6七銀△4二角▲2六飛△3四飛▲4六銀で、△3三桂ととべないのでおかしい。△3三桂なら▲7九角で終わり。

 しかし、小林先生はさして考えずに△3二金。ん、どう指されるのだろうと▲6七銀。そこで△4五歩。角交換は△4一飛―△2一飛△3四銀というふうに2筋を逆襲されてつまらないので▲6六銀右と上がる。

 まだ気が付いていない。数分後、小林先生は4二の飛車を6二にそっと移した。3図。

photo_3 (13)

 指された瞬間は何だろうと思ったが、時間がたつにつれ良い手ということが分かり、さすがだなと感じた。

 もし僕が振り飛車側を持ってたら、△4五歩~△6二飛の一連の着想はまず思い浮かばなかったと思う。

 ねらいは△6四歩から一歩持って一手で△3四飛と回ろうというものである。そうされてはいけないので、9分考えて▲5五歩を突く。今度は△6四歩以下△3四飛なら、▲5六銀で僕の方が指せる。対して小林先生は4分の短考で△4四銀と上がる。

 指された瞬間▲5五歩が悪手だったことに気が付いた。しかも、▲5五歩は▲6六銀右と上ったときからの予定であったのだから全く救いようがない。以下▲5六銀△4三金▲6七金△5四歩▲同歩△6四歩▲同歩△5四金と5筋を争点にされては▲5五歩の罪は明白である。 

 仕方がないので▲5五歩△6四金▲6五歩△6三金と進むが、相手だけに何手も指されて良い訳がない。

 戻って▲5五歩では▲6八金直として、△6四歩▲同歩△同飛に、それから▲5五歩で遅くなかった。そう指していれば、少なくとも作戦負けにはならなかったと思う。

 △6三金まで進み、自分の甘さを嘆き、後悔していたが、気を取り直して▲5八飛。

 で良く見てみれば、わが陣もそう簡単には負けない形ではないかと思えてきた。(幸せな奴である)それが良かったのだろう。以後は強気、強気と指して迎えた4図。

(中略)

 以下もたついたものの、何とか勝つことが出来た。

 これで決勝に進出。この稿が出る頃には結果が出ていると思うが、普段どおり、自分の将棋を指したいと思う。

    

 今、季節は秋である。僕は秋という季節がとても好きだ。風が、というより空気そのものが肌に心地よい。窓を開け、音楽を聴きながら本を読む。

 ふと、僕は将棋のことを考える。

 今まで、僕はずっとそういう風に将棋と付き合って来た。あらゆる日常生活の中で、ふと将棋のことを考え、将棋と結びつけて考える。音楽を聴きながら、本を読みながら、或いは映画を見ながら、電車の中、景色を見ながら、風呂につかりながら。

 これからもずっとそうなのだと思う。

 好きな今井美樹を聴きながら、僕はふと将棋のことを考える。

 もっと強くなりたいと。

—–

この期の棋聖戦挑戦者決定戦、郷田真隆四段(当時)は森下卓六段(当時)に敗れ、惜しくも挑戦権を逃している。

四段でデビューした年度に挑戦者決定戦まで勝ち進むのだからすごい。

—–

「相手が誰であろうと自分の将棋を指すのが僕のやり方」

「普段どおり、自分の将棋を指したい」

三つ子の魂百まで。

郷田真隆九段らしさが、この頃から貫かれている。

—–

(僕はまだ未成年なので、女の子がついてくる店でウイスキーを飲みながらカラオケを歌ったりはしません。たぶん・・・・・・)

この表現が秀逸だ。

”女の子がついてくる”というのは”女の子が席に着いてくれる”を端的に言い表したもの。

—–

小林健二八段(当時)がNHK将棋講座の講師を担当していたのは1989年度。

郷田真隆九段が18歳とか19歳の頃。(四段になるのは1990年4月)。

1989年は、キャバクラ(クラブ、スナックと異なり、料金が時間制、ボトルキープの概念がない形態)が多く出店しはじめた頃。

キャバクラの場合、店に勤務する女性は18歳~20歳が多く、22歳の子などが「私はもうオバさんよ」と言うほど。

年上の女性のことを女の子とは呼ばないので、郷田三段(当時)が連れて行ってもらった店は、キャバクラであった可能性が高い。

郷田三段は、相当モテていたことだろう。

—–

今井美樹さんは1963年4月14日生まれ、AB型。

郷田真隆九段より8歳弱年上になる。

郷田四段(当時)がこの頃に聴いていたと思われる今井美樹さんの新曲は、「雨にキッスの花束を」。

日本テレビ系アニメ「YAWARA!」の2代目オープニング曲だった。