米長邦雄王将(当時)「この馬鹿たれめが!」

将棋世界1991年1月号、米長邦雄王将(当時)の第32期王位戦予選〔対 先崎学五段〕自戦記「恩返しはまだ早い」より。

 今月は丸顔のかわいいお坊ちゃんとの対局を紹介したい。

 いつぞや新宿の酒場で谷川、塚田、先崎の三人が一緒に飲んでいる所に出っくわしたことがある。先崎はいろんな先輩に大勢かわいがられているようだ。

 しかし、その三人で飲んでいる風景をよく見ていると、どうもその中で一番威張っているのが先崎であって、何やら他の二人の兄貴分という観さえあった。

 まだハタチ前のことである。なにしろ20代の代表格、東西の双璧ともいえる二人を相手に堂々と渡り合う、というよりもむしろ貫禄上位といった有様には私も大いに驚いた。

 もっとも最近は弟子だからといって師匠風を吹かそうなどとすると逆にこちらがお説教を食らうということもある。

 先崎はチャイルドブランドの中のみならず、この将棋界において特異な存在ということであろう。

 将棋の才能はもともとあった男で、私の所に内弟子をしていた頃は”天才先崎”の呼び名も高かった。しかるに、羽生善治という凄いのが出て来てからは”元天才”の名に甘んじることとなっている。

 ”元々天才芹沢””元天才先崎””天才羽生”という図式になったのだ。

 昨今の研究会の流行ぶりは何度も述べている通りであるが、その中にあって先崎は、それでは飽き足らないということであろうか、流行りの手、ものまね、あるいは修正手順などを積極的に取り入れないようである。皆と同じようなことはあまりやらない。

 時折、先崎の示す序盤感覚はやはり元天才だけのことはあって、その才能を垣間見ることは多い。しかし、それが今ひとつ爆発的な勝ち星に結びつかず、タイトル戦線をかき回すところまで行かないのは、やはり、まだまだその自分自身の才能をフルに活用しきれていない環境下にあるからだろうと思う。

 近頃は次から次へ10代の精鋭が頭角を現して来る。羽生に続いて佐藤(康)、森内、最近では屋敷、郷田、はたまた丸山、この早稲田の学生さんも相当に強い。

 こういう中にあって元天才は徐々に徐々に日が沈みかけている感があるのだけれども、しかし天才というやつはある時突然大きく羽ばたくものである。

 とにかく、のんびりと遠回りをしての大成を密かに期待している。

(中略)

 先崎との対局はこれが2局目だ。

 1局目はゲンダイの勝ち抜き戦で、私が森下卓先生に教わった腰掛け銀の作戦に出て序盤から圧倒、中盤も読み勝ち、終盤は一手も誤らず、という完勝ぶりであった。局後にお説教をした記憶がある。

 今回は先崎も雪辱を期して、というよりもお説教をされないように必死で立ち向かって来ることは想像に難くない。

 あれからどのくらい成長したか、それを見るのも師匠の楽しみの一つである。

 当日は隣で塚田-高橋のA級順位戦があった。その両者に「今日は師匠の貫禄を見せなければ示しがつかないのでたいへんな一局なんだ」とご挨拶しておいた。

 振り駒の結果、私の先手となった。

 できれば弟子の先番と事前に決めておいてほしいような心境であったが、まあ先後はどうということもあるまい。

(中略)

(米長王将の勝ち)

 終局は午後6時33分。

 30分程感想戦をやったのだが、その時の先崎の発言を要約すると、

  • 序盤の▲6八金には感心させられた。その手があってみると、この作戦そのものがパッとしない将棋かもしれない。
  • 序盤早々に二枚銀を繰り出すよりも、やはり玉を6二~7二に囲っていた方が良かったか。

(中略)

 等々といろいろ疑問を呈していたのだが、先崎は一番重大な敗因を、そしてそれが決定的であったにもかかわらず、ついぞ一言も述べなかった。私にとってはそれが非常に不満であった。しかし、その感想戦に居合わせた鈴木輝彦七段が、見るに見かねてと言うべきか、この将棋の敗因をずばり指摘してくれた。

「米長先生、素晴らしいです。感動いたしました」

 相手が悪かった、ということにまだ先崎は気がついていないのかもしれない。

 この馬鹿たれめが!

 感想戦が終わった後、先崎と連れ立って芝の料亭へと繰り出した。

 その夜は痛飲。

 将棋は忘れてしもうて大いに飲んだ。

 帰りの車の中、私は先崎を送り届けてから自宅に帰ろうと思っていたのだが、「連盟に寄ってそこで降ろしてください」ということであった。

 先崎は将棋会館で一人降りて行った。

 この日は棋聖戦準決勝の小林(健)-郷田戦があった。また、塚田-高橋のA級順位戦が残っている。

 

将棋世界同じ号より。

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「いつぞや新宿の酒場で谷川、塚田、先崎の三人が一緒に飲んでいる所に出っくわしたことがある」

新宿にあった「あり」である可能性が高い。

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「しかし、その三人で飲んでいる風景をよく見ていると、どうもその中で一番威張っているのが先崎であって、何やら他の二人の兄貴分という観さえあった」

そのようなことがあったからか、あるいは関係なくか、谷川浩司王位(当時)は、先崎学五段(当時)を牢屋の話の引き合いに出している。

谷川浩司王位(当時)「将棋牢というのがあれば先崎五段なんかを一日閉じ込めるっていうのもいいんじゃないかと……」

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「相手が悪かった、ということにまだ先崎は気がついていないのかもしれない。この馬鹿たれめが!」

米長邦雄永世棋聖らしさが全開の文章。面白い。

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「感想戦が終わった後、先崎と連れ立って芝の料亭へと繰り出した」

芝にある料亭ということでは、この当時は田町駅の海岸側にあった「牡丹」が有名だった。歴史がありながら一人1万円以内で飲食ができるという料亭だった。(2017年頃閉店)

千駄ヶ谷から田町・芝方面はタクシーで行けば、そう遠くもない。

「私は先崎を送り届けてから自宅に帰ろうと思っていたのだが」

この頃、米長王将は駅でいえば鷺ノ宮、先崎五段は東中野だったので、先崎五段の家は米長王将の家への帰り道の途中にあった。

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「近頃は次から次へ10代の精鋭が頭角を現して来る。羽生に続いて佐藤(康)、森内、最近では屋敷、郷田、はたまた丸山、この早稲田の学生さんも相当に強い」

郷田真隆四段(当時)と丸山忠久四段(当時)は四段になって1年目。

米長王将から既にこのように見られていたということは、この二人が1年目からいかに活躍していたかがわかる。

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「先崎は将棋会館で一人降りて行った。この日は棋聖戦準決勝の小林(健)-郷田戦があった」

この一戦のことについては、次の記事で少しだけ取り上げられている。

「私、郷田くんのファンなんです」