サッカー「日本将棋連盟VSウィーンフィルハーモニー管弦楽団」

月刊宝石1999年5月号、湯川恵子さんの「将棋・ワンダーランド」より。

晴れてサッカー

 順位戦の昇級者は今期も各クラス合わせて九人。そのうち二人をサッカー場から紹介しまーす。
 三月十八日。東京北区の西が丘サッカー場。公式戦にも使われる立派な専用グラウンドだ。
 最終戦を待たずに昇級を決めた木村一基四段がボールを蹴っている。連続昇級した深浦康市六段も走っている。相手チームはなんとドイツから来たウィーンフィルハーモニー管弦楽団の面々だ。
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 木村四段(→五段)二十五才。目にちょっと憂いある優しい顔だちですが、四十七人も居る大所帯のC2組をたった二期で抜けた。奨励会時代が十一年半もかかった人なので、初のこの昇級はさぞ嬉しいだろう。他棋戦でも好成績をおさめ、勝率7割。
「いい年でした。でもC1組は怖い人ばかりですからねぇ。組み合わせが決まったらゆっくり作戦を考えようかなと思っています」
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 若手の強いのがごろごろいて、ピラニアの棲み家とも言われるそのC1組から、さらにB2組へ昇級したのが深浦康市六段、二十七才。かつて全日本プロトーナメントで優勝したとき、賞金は何に使いますかと訊いたら真っ先に、
「サッカー部にも少し…」
 と答えた人だ。当時、将棋連盟サッカー部のキャプテンだった。仲間達のユニホームをそろえるために寄付したようだ。
 今期順位戦は六勝一敗で迎えた八回戦が大逆転勝利。そのとき脳裏に浮かんだのがサッカーW杯予選での岡田監督の言葉だそうだ。「ひょっとしたら、ひょっとするのでは…」
 C2時代が6年もかかったが、前期と今期みごと連続昇級を果たした。図は、昇級を決めた最終戦の中盤(相手は石川陽生六段)。以下△2五歩▲4五歩△2六歩
と▲4四歩△同歩。そして▲1二角成で香得し、じわじわと優勢を拡大した完勝譜。平然と飛車角交換に応じたのは8八金型だから。奇異な形だが、飛車の打ち込みにも備えた工夫の跡なのである。
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 とにかく相手チームが世界的に有名なオーケストラとは、凄いでしょう。そもそもは昨年十月、私が将棋雑誌でエガワさんの肩書きを間違えて書いてしまったこと。(株)小学館の外国語辞典編集部編集長代理の頴川栄治さん。観戦記で端折って編集部長と書いてしまいご迷惑かけた。お詫びのために再会し、瓢箪から駒が出た。
 ウィーンフィルは演奏旅行の折りにサッカーするのを楽しみにしている。日本におけるその世話役がエガワさん。
「ではぜひ深浦先生を紹介してください、きっと喜んで頂けます。ウィーンフィル三百年の歴史にも刻まれることですので」
 すぐ深浦六段に電話した。
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 現キャプテン野月(浩貴四段)と木村、深浦ら連盟サッカー部の幹部は、まずグラウンド探しに走り回った。日本サッカー協会にも何度も足を運び、ついに西が丘を獲得したのだそうだ。
 ウィーンフィルチームは着くなり歓声あげた。世界各国で試合してきたがこんな素晴らしい緑の芝のグラウンドは初めてですって。冬用の芝があるのですねぇ。
 ウィーンチームの監督さんが、「お互い、指を怪我しないように気をつけて試合しましょう」 
 って。ドイツ語ですけどね。
 連盟チームのゴールキーパーは中田功六段。この人は身長も外人さんと好勝負。他のメンバーは疲れるとどんどん交代しつつ、とにかく走る。深浦六段は速い、忍者のように神出鬼没の動きをする。キャプテンが声を張り上げて激励し続ける。でもボールが連盟チームのゴール付近に迫るシーン屡々で私はドキドキし通しだ。
 2対0。ウィーンフィルチームの勝ち。「やはり相手は思ったより足が長かった」てな声もあったから、2点に押さえたのは中田GKの大健闘ではなかろうか。
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 試合半ばで現れたのは佐藤康光名人。エガワさんが「日本の将棋の名人はバイオリンを弾くんですよ」と紹介した。佐藤名人は大あわてで、「とんでもない、趣味ですよ素人ですよっ」
 名人はウィーンフィル来日の度にチケットを取ろうとしているが一度も成功しない。それでエガワさんがまた大奮闘。名人のために1枚都合つけたのだ。名人は価値を承知しているだけに最初は必死で遠慮し続けたが、結局大喜びでサッカー場からサントリーホールに向かうことになった。
 はい、ウィーンフィルオーケストラはこの晩もサントリーホールで公演があり、リハーサル時間を削ってサッカーしているのです。 しかし、後で聞いたことにGKは演奏者ではない。「0点におさえるために強い人を連れてきたんです」、とはエガワさんのジョーク。指を怪我し易いから、演奏に支障きたさぬようGKだけは正規の演奏メンバーを使わないのだ。 いつの間にかカメラ持参で飛び出して来たのは西が丘サッカー場の管理部長さん。
「いやぁ、こういう所へ名人がいらっしゃることもないもんですから、ぜひ記念写真を」
 名人と名刺交換もした。深浦さん達、今後はグラウンド探しに苦労しなくてすむかもネ!
 試合終了時にピタリ現れたのは青野照市九段。ウィーンフィルの大ファン。エガワさんと一緒にドイツを訪れてメンバーの何人かに会い、連盟サッカー部の存在を話したこともあったそうだ。そういう下地もあってこんな夢のような一日が実現したのですねぇ。
 いい汗を流した後は王子駅前の中華屋で、みんなで乾杯~っ。
 佐藤名人が差し出した紙袋にはウィーンチームへのお土産の扇子が詰まっていた。 

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「目にちょっと憂いある優しい顔だち」の木村一基四段(当時)。

なるほど、言われてみればそうだ、女性ならではの視点だと感心させられる。

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当時の深浦康市六段、野月浩貴四段、中田功六段、佐藤康光名人、青野照市九段。

それぞれの棋士が、それぞれの棋士らしい個性で登場してくるのも嬉しい。

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頴川栄治さん(小学館 元編集長)は、ウィーンフィルの奏者たちと40年以上にわたって親交を深めてきた。

また、頴川さんは、2011年4月に「東日本大震災チャリティーイベント将棋in神奈川」を発案し、関係各方面に声をかけて実現へと導いた。

頴川さんには、2011年の将棋の日に日本将棋連盟から感謝状が贈呈された。

この時のオークションでは、野月浩貴七段が、チャリティーイベント参加棋士全員のサインが入った榧製の将棋盤を出品して、10万円で落札されている。

震災チャリティー将棋イベント開催、佐伯昌優九段らプロ棋士とファンが交流/横浜(神奈川新聞)