羽生世代、切れ負け将棋のそれぞれの棋風

将棋世界1992年8月号、先崎学五段(当時)の「先チャンにおまかせ:浪速、正棋会、乱れ撃ち。(後編)」より。

 1年くらい前、羽生が、持ち時間が短い将棋が終わった後に、奨励会の頃を思い出した、といったことがある。中盤戦から双方1分将棋の大熱戦を、やっと勝ったので、そういえば、こんなに秒読みをやったのは、(TV棋戦を除くと)奨励会以来だ、というのだ。奨励会は1時間30分の持ち時間なので、深くて正確な読みよりも、短くとも、鋭い読みが大切になる。中盤戦から秒読みになることが多いので、実力が拮抗していると、だいたい難解な終盤を1分将棋で指さなくてはいけない。そのときに、最も重要なことは、手が見える、ということである。言い換えれば、将棋に対する反射神経にすぐれているということだ。

 切れ負け将棋は、反射神経を鍛えるには絶好で、奨励会、とくに有段者になってからは、本当にたくさん指した。僕の有段者の時代、羽生は、もう四段だったが、森内、佐藤(康)、郷田、小倉、秋山(現三段)などがグループになって、30分くらいの、切れ負け将棋を、何ものかに憑かれたように、指しまくったものだった。若き緑の日々の若樹にも、それぞれの、枝の付き方や幹の色など様々で、羽生は平均強く、森内は非常に負けにくかったし、郷田は序盤の何気ない局面で突然考え出す癖があったし、佐藤は安全勝ちが嫌いで必ず一手でも早く勝とうとした。

 金はなく、切れ負け将棋に勝って相手からむしり取った金で喫茶店に行くのはかなりの贅沢だった。あるのは、勝ち負けに対する執念だけといってもよかった。

 ある時、研究会で、先に名を挙げた中の某君が、先輩棋士と盤を挟んだ。もちろん切れ負けである。棋士と奨励会員の二人だが、反射神経、執念などでは、あきらかに某君が上回っていた。

 壮絶な時計の叩き合いを某君が制した後の感想戦で先輩がいった。

 「ここではこちらが指しやすいでしょう」

 某君はうつむきながら赤い顔で答えた。

 「ええ、悪いと思っていました」

 「その割に、君、自信ありそうだったじゃない」

 「・・・悪いことは悪いと思ったんですけど、でも、僕の王様、残り5分では寄らないと思いましたから―」

 先輩棋士は、終わった後、某君のいない酒席でこぼした。「あんな言いぐさはないよ。残り5分では寄らない、なんていうのはおかしい」。言いたいことはよくわかる。長年棋士をやれば、たしかにそう思うだろう。しかし、僕らにとっては、それこそが将棋、だったのである。形勢が悪くても、指し手が汚くても、相手の時計が落ちさえすれば―勝ちさえすればなんでも良かった。終盤、相手の時間がほとんどなくなれば、平気で王手を連発して、時間を切らそうとした。

 今の同一局面4回で千日手、という規定が、まだ同一手順3回という旧規定だったころのはなしである。僕は雲の上のような大先生と切れ負けを指していた。僕の振り飛車に相手は居飛車、終盤、時間は、相手は1分を切っていた。

 局面は、まったく憶えていないので、部分的にすると1図のようだった。僕の玉には必死がかかっていた。相手の玉は、ちょっと強い方なら一目だろうが、絶対に詰みがない。横からの飛打ちには角を合駒する、取る一手、金で取る、斜めの筋に角を打つ、飛を合駒する、取る、金で取る、もとい、飛を打つ・・・。ようするに永久運動で、絶対に詰まない。では負けか?

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 しかし、ここまで書けば賢明な読者にはおわかりだろう。王手王手の千日手は反則負けだが、途中2一飛成や2二角成のところを、”不成”にすれば、同一手順にはならず、永久的に指せるのである。持ち時間のある秒読み将棋ならばいざ知らず、反則ではないのだから、指していけば、必ず時間が切れる。さすがに、少し気がひけたが、3度目の手順のとき、わざと「ならず」「ならず」と大声を出して角を取った。その勝負は僕が勝った。あ相手がその一手で投了したのである。

 棋士になってから、その時のことが話題となり、賛否両論喧々諤々たる議論になったが、僕は今でも、その時なりに正しかったと信じている。何で勝っても勝ちは勝ち、ルールに不備があったならば、それを突いて勝つことは当然なのだ。

 そこで僕は自分で設問する。今、同じことが中原名人相手にできるか?

 もちろん、僕が中原名人相手に切れ負けを指すことはないだろうから、あくまで仮定の話であるが、非常に難しく、簡単には答えを出せない。想像してみて、自分が大声で不成と叫ぶことがどうしてもできない。失礼とか、畏れ多いなどという感情は微塵もないが、なんのためらいもなく、喜々として叫ぶことはできないような気がする。

 ここでわかることは、青春時代の終わりなどというキザな言葉は使わないが、外界から遮断されて、一心不乱に前を向いて走ってきた少年が、遮眼帯をはずされて、少しずつ周りの景色が見えるようになったということである。いいことか悪いことか、僕にはわからない。

(以下略)

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オンライン対局の将棋ウォーズは10分切れ負けと3分切れ負けの2パターン。

私は10分切れ負けでやっているが、面白いもので、相手の残り時間のほうが少なくても、こちらが敗勢の時は相手の時間切れ前に詰まされてしまうことが多い。

切れ負けルールの特性を活かした勝ち方というのも、なかなかできないものだ。

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奨励会員にとっての切れ負け将棋は、反射神経を鍛えることが主眼。

たしかに若い頃であれば、反射神経は幾何級数的に身につきやすい。

「いい手は指が覚えている」という郷田真隆九段の有名な言葉があるが、このような鍛錬もその源泉の一つになっているのだろう。

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「羽生は平均強く、森内は非常に負けにくかったし、郷田は序盤の何気ない局面で突然考え出す癖があったし、佐藤は安全勝ちが嫌いで必ず一手でも早く勝とうとした」

先崎学五段(当時)だからこそ書ける貴重な文章だ。