村山慈明三段(当時)「あーーっつ」

近代将棋2002年3月号、中野隆義さんの「奨励会三段チームVS.三軒茶屋将棋倶楽部チーム」より。

 片上大輔奨励会三段対清水上徹戦は清水上勝ち。大平武洋奨励会三段対細川大市郎戦は大平勝ち。奨励会三段陣対三軒茶屋将棋倶楽部戦の勝敗の行方は、村山慈明奨励会三段対山田洋次戦に委ねられた。

 このたびの対抗戦に当たって、奨励会三段陣の人選は、当編集部に一任させていただいた。3名の中の一人として村山三段を選んだのには理由がある。

 三段陣の中で最年少であることもその一つではあるが、決め手になったのは、なによりもそのキャラクターに魅力を感じたからだ。

 村山には、二度ほど面識があった。1回目は、昨年の名人戦第5局にて。対局場の栃木県宇都宮市「宇都宮グランドホテル」の大盤解説場に、村山は父君に連れられてやってきた。今思うと、連れてきたのは村山の方だったのかもしれないが、小柄な身を詰襟の学生服に包んだ村山は、まるで借りてきた猫のようにかしこまっていたので、連れられてやってきたとしか見えなかったのだ。

 村山は間近で行われている最高峰の戦いに接せられるのが嬉しくてたまらないという風情で、その初々しさと風貌から、奨励会の子と聞いたけど、まだ級の方かな、などと失礼ながら思い込んでしまっていた。

 2回目に会ったのは初対面から数ヶ月たったころか、所は東京千駄ヶ谷の将棋会館「桂の間」だ。ここは、棋士と報道関係者らの控え室のようなところで、若手棋士や奨励会員らが、将棋の検討をしたり、10秒将棋で乱取り稽古をしたりしている。

 桂の間で会った村山は、栃木で会った子とは別人に見えた。年かさの奨励会員にタメ口をきいているし、将棋の検討をして、指し手を指摘するときの言い方が断定的ではなはだ気風がいい。小柄なはずの体躯が、ぐっと大きく見えた。

 将棋指しは、盤の前に座ったときに大きく見える者が強い。あのときは、大したことなさそうだなと感じたけど、どうもそうではないようだぞと思って、彼らのやりとりに聞き耳を立てていると、つい最近村山が三段リーグに入ったとわかって驚いた。

 20分ほど中座していた村山が、片上に腕を引っ張られるようにして帰ってきた。片上は興奮気味に「おい、お前、いま何を言ったのか、わかってんのかよ」なんて言っている。きょとんとしている村山に、片上が諭すような口調でことの顛末を話し始めた。私は聞き耳を立てるのでは我慢できなくなって、なになに、一体どうしたのと身を乗り出した。

「とにかく聞いてくださいよ!こいつ、とんでもないこと言っちゃったんですからっ」

 片上の解説をかいつまんで報告するとこうである。

 この日は奨励会の入会試験が行われていた。片上と連れ立って試験会場に入った村山は、奨励会幹事の机の上にある受験者名簿を眺めながら「ふんふん、大介っていうのがいるなあ。おっ、勝ってる勝ってる。この大介は強いんだよなあ」と言った。片上は瞬時に、「これはヤバイ」と、いやな予感がしたそうだ。やんぬるかな、村山は続けて「じゃあ、弱い方の大輔はいるかな」とのたもうた。

 片上はほとんど卒倒しそうになった。村山と片上の目の前に、次の奨励会の日から幹事になる中川大輔七段がいたからである。

 と、ここまで、聞いて、さすがの村山もハッとした顔になった。

 村山は、先輩の片上大輔三段をおちょくるつもりで言ったのだが、1メートルと離れていない至近距離に中川がいたのはまずい。

「お前なあ、中川さん、ピクピクしてたぞお」。

「あーーっつ」と村山は頭を抱えた。

「どうしてボクはいつもこうなっちゃうんだあ」。

 どうやら、村山は、舌禍の人であるらしい。

「ああーーっ。謝らなくちゃあ」と頭を抱えたまま身もだえする村山に、ふと意地悪心が頭をもたげ「謝ると言っても、なあ……。どう謝るの?知りませんでしたというんじゃ、中川さんのこと無視してましたってことになっちゃうし、知ってて言ったというんじゃ、よけい怒らしちゃうだろうしなあ」と私が言うと、片上が「あーあ。いままでにらまれていた豊川さんが幹事を代わることになったというのに、次の幹事に中川さんがなる前からもうにらまれるってんだからなあ。まったく、お前ってやつはあ」と、すかさず追い打ちをかける。

「まずいっすよねえ。でも、三段リーグじゃ中川さんと当たらないから、問題ないっす」

 反省はすれどもこの開き直りの見事さに、痛く感心した。

(以下略)

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たしかに、このケースでは謝り方が最上級に難しい。

中川大輔七段(当時)が本気で気にしていたかどうかは別として、「時間が30分前に戻ってくれればなあ」とつくづく思ってしまう瞬間。

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何気なく豊川孝弘五段(当時)の名前が出てくるところも絶妙だ。