郷田流と羽生流の真っ向からの激突

将棋世界1993年9月号、中野隆義さんの第34期王位戦〔羽生善治竜王-郷田真隆王位〕第1局観戦記「魅力あふれる戦い」より。

王位戦第1局。将棋世界同じ号より。撮影は中野英伴さん。

 郷田真隆王位に羽生善治三冠王が挑戦する七番勝負。22歳の若武者同士の一騎打ちである。

(中略)

 郷田は一局の将棋に己が構想を盛り込まんとする棋士である。相手の後ろからひたひたと付いていってじっとスキをうかがい、相手が蹴つまずくか何かしたのを見咎めてこれ幸いとばかりブッ叩く、というような勝ち方はしないのである。どうだ、俺の将棋を見てくれと、相手にそしてファンに胸を張る。勝つも負けるも自分の出来次第という傾向があるから、中原に5戦して全勝しているかと思うと、竜王戦では未だ最下位の6組を抜け出せないでいるというようなところもある。横綱も倒すが平幕にもころっと負かされるのだ。

 強さと脆さを併せ持つことは女性にもてる重要因子であって、これは将棋が強いこと以上にうらやましく思われる資質である。

 昨年、谷川に棋聖戦と王位戦でダブルタイトルマッチを戦った時。下馬評は谷川がかなり厚いが、郷田には未知の力が潜んでいるから勝負は分からないぞと見ていたら、あっけらかんと王位を奪取してしまったのには驚かされた。敗れた谷川も、なんでこの男がC2でうろうろしているのか不思議でならなかったに違いない。はたまた、勝負至上主義が蔓延する当世にあって、ひたすら我が道を突き進むという勝負の上からは率の良くないやりかたでよくぞここまで駆け上がって来たものよ、と思ったか。

 当たるべからず勢いで勝ち進む羽生は敵の強打にはこちらも最強の応手をもって打ち返すを旨としている。中・終盤の比類なき強打をもって鳴る谷川との番勝負が、かつてないほどの凄まじい叩き合いを展開しているのは、みなさんご承知の通りである。

 郷田との番勝負も猛烈な叩き合いを演じるに相違ない。予想は確信となり、記者をして急ぎ足で「水明館」の門をくぐらせた。

(中略)

 1図。郷田は、昼食休憩をはさんで延々と長考に沈んでいた。

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1図以下の指し手

大長考

△8二飛86▲7五歩8△3四歩7▲4八玉58△4二玉68▲7六飛48△4四歩23 (2図)

 序盤の大長考は、加藤一二三九段の十八番であるが、郷田はその後を継ぐに足る棋士である。時間があれば納得のいくまで考えてみたい、とは棋士たる者の誰もが持っている心といえよう。しかし、勝負所の中・終盤に時間を残しておく方が、勝ち負けを考えるなら遥かに得策である。そのように冷静に状況を判断する者から見れば、考えたって分かるか分からないかすら分からないところに、湯水のように時間を注ぐのはほとんど馬鹿みたいな行為に映るかもしれない。

 考えたって切りがないところで時間を使うのは無駄である、と、長い間、記者もそう思っていた。今は、周囲の状況に惑わされず、己の心に素直に従えるのはとても素敵なことだと思えるようになってきている。益の多少で動くばかりでは味のないことおびただしい。

 △8二飛では、先手のヒネリ飛車を阻止する意味で△7四歩と突く手を考えたが、▲5六飛△4二銀▲7五歩△8二飛▲7四歩△同銀▲9七角で戦い切れない。と、これが86分の長考の結論である。

 △4四歩と、郷田が玉頭の歩を突いた2図。「ここまで、指そうと思えばものの数分と掛けずにできますよ。できますけども6時間も7時間も掛ける。それがいいんですよね」と、副立会の小林健二八段。なるほど、これがタイトル戦なんだ、これがプロの将棋なんだ、と控え室の一同が納得する中、封じ手の時刻がやってきた。

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2図以下の指し手

▲4六歩68△2四歩7 (3図)

戦いの儀礼

封じ手の▲4六歩は長考68分の末の所産であった。この手を考え出してから封じ手時刻の定刻6時まで小一時間の間があった故、「時間が来たらすぐ封じますよ」などとしたり顔で言っていたら、羽生が直ちに封じる気配を見せないので、記者は頭を掻くはめになった。羽生が封じたのは、定刻を四半時ほど回った頃。羽生に並々ならぬ気合を感じさせられる数十分だった。

 ▲4六歩は、後手の4筋位取りを拒否した一手。この手では▲9七角として、以下△4五歩▲8六飛△8五歩▲7六飛△4三金▲6八銀△5四銀▲6六歩という路線もあるとのことだが、4筋の位を張られるのは、どうも相手にでかい顔をされているようで先手としては面白くなかろう。羽生の▲4六歩は、彼の負けん気が突かせたものと思う。

 郷田の△2四歩。お前のいいようにはさせないぞ、とこられれば、なにをっこのヤロウと応えるのが戦いの儀礼である。

 そうそう、そうこなくっちゃあいけませんゼ、と盤側は身を乗り出した。

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3図以下の指し手

▲8五歩△3三角▲6八銀△2五歩▲9七角△4三金▲6六歩△3二玉▲6七銀△2四角 (4図)

鬼ヅッパリ

 ヒネリ飛車の将棋の急所は、4筋と2筋にある。先手の立場から見れば、4筋の位は取らせず後手の2筋の歩が伸びてくる前に左翼方面で戦いを起こすことができれば、おおむね作戦成功と見て良い。そのような観点からすれば、本譜は何やらおかしな展開になっている。4筋の位は押さえたものの、2筋をずんずんと伸ばされ、右翼方面に火の手が上がらんとしているではないか。

 まぜ、このような事になったかというと、それは郷田が鬼のように突っ張ったからである。

 先手陣の2七歩がないことに目を付けて2筋の歩を伸ばしていこうか、というのはプロならば誰しもが浮かぶ発想である。ただ、普通はそれを実現するためにあたっては、まずは王様をある程度整備してから、というのが相場とされていた。ところが、後手が王様に手数を掛ければ2筋の歩を伸ばす手が遅れ、先手の左翼方面での仕掛けが間に合ってくる。手堅くするとかえって相手に攻められてしまうというのが、おかしくも皮肉である。

 郷田は王様が半囲いのまま、後手側が威張れる可能性のあるところを思い切り主張してきたのであった。この図々しさの極致ともいえる大模様が郷田将棋の魅力である。

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4図以下の指し手

▲5六銀△2六歩▲3九玉△4六角▲6八金 (5図)

4六歩を巡って

 4図。△2四角とのぞかれて4六の歩が受けにくい。▲4七銀と上がるのでは囲いが弱くなってしまい強い戦いができなくなるし、といって▲6五歩といきなり戦いを起こすのは堂々と△同歩と取られて攻めを逆用されかねない。

 一体どうするのかと見ていると、羽生▲5六銀。

 そうか、△4六角なら▲6五歩△同歩▲同銀の筋があるか、と、これは記者も納得した。

 しかし、本譜。△2六歩と郷田に突き出され、次の△2七歩成▲同銀△2八歩に備えての▲3九玉に勇躍△4六角と飛び出され羽生の4六歩はあえなく取り去られてしまった。しかも△5七角成の先手を見られて▲6八金の守りが余儀ない。

 「ええっ、4六歩を簡単に取られてしまったじゃないか。無条件の一歩損だ。玉頭の急所と思える歩を分捕られて大丈夫なのか」と、人ごとながら盤側は心配になった。そんな気持ちを見抜いたのか、立会の広津久雄九段が解説してくれる。

 「先手先手と利かされて歩を取られちゃって、羽生の方が随分損してるように見えるかもしれないけど、そうでもないんだよ。▲3九玉も▲6八金も先手にとってはプラスの手だし、後手の2六歩が伸びすぎになっている意味があるんだよ」

 なるほどそういうものなのか、と思っていたら、九段が続けて言った言葉には驚かされた。

 「むしろ羽生君の方が指しやすいんじゃないの。ね、小林君」

 「はい。ぼくもそう思います」

 えーっ。そんなことって・・・。

11

5図以下の指し手

△1五歩▲同歩△1七歩▲4七銀引△2四角▲6五歩△4一玉▲6四歩△5四銀▲7四歩△同歩▲6六飛 (6図)

強情采配

 「4六の歩を取るのは悪いと分かっていたのですが・・・。後は悪手のオンパレードで」

 そうだったのか。

 局後。郷田がぶっきらぼうに言ったのを聞いて、記者のにぶい頭もようやくにして悟った。プロの局面を見る目は、正しく恐ろしいものである。4六の歩に拘らない羽生の柔軟な発想が素晴らしかったのであった。

 将棋が終わってしまえば、動かぬ証拠で固められた冷めた結論が幅を利かすが、この将棋を「4六歩を取りにいったのがまずかった」で済ましては身も蓋もない。この将棋の花は、4図以下、2四に覗いた角の顔を立てることに心血を注いだ郷田と、呵責なき責めでそれに対した羽生との戦いにある。

 5図での△1五歩で△2四角と引いて自重していれば、本譜よりは確かにましだったかもしれない。だが、それは、ノーアウト一塁二塁という場面で四番打者にバントを命じるようなものであって、駒のやる気を消沈させてしまう行為である。バントをさせるくらいだったらはじめから四番などに置かぬがよく、四番に置いたのならとことんそこに賭けてみようじゃないか、と、これが大将たる者の振る采配であろう。

 その意味で、郷田は頼もしい。谷川にも羽生にも、強情采配はしかと備わっている。強情采配は愛の采配でもある。

 郷田が言った通り、△1五歩▲同歩△1七歩は無理筋である。しかし、こう指してもらって、4六角は嬉しかったと思う。今は時を得ずして朽ちるとも、いつか蘇ってきっとあなたのお役に立ちましょうと、口には出さねど心に固く誓ったにちがいないのである。

 羽生の▲6六飛は辛辣。後手に飛車回りを消す▲2三歩という技巧は用いず、郷田陣を正面から潰してやろうとしている。盤上の駒がとてもよく張っている。

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6図以下の指し手

△6五歩▲同桂△2七歩成▲同銀△5二金▲5八金左△3三角▲8六飛△6五銀▲8四歩△3五桂▲8三歩成△2七桂成▲2八歩△8五歩▲同飛△7三桂▲8四飛△1八歩成▲2七歩△1九と▲8二と△2九と▲4八玉△4五歩▲6三歩成△同金▲7二と△4六香▲8一飛成△3二玉 (7図)

大山流の勝負観

 この譜には羽生一流の勝負観の一端が垣間見られる。

 △2七歩成に対する▲同銀の手では、▲6三歩成△3八と▲同銀△6三銀▲5三桂成と殺到すれば早い。また△3五桂に▲8三歩成のところでは▲3八銀左△2七桂成▲同銀△7五銀▲8三歩成△8六銀▲8二と△9七銀成▲6三歩成△同金▲6一飛(参考図)が分かりやすい。のであるが、感想戦の羽生の様子から、対局中の羽生はこのような変化を敢えて掘り下げようとしていないことが見て取れた。

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 しかし、これは決して緩んでいるということではない。本譜の順もいささかの駒のたるみも感じられない戦いである。

 相手との距離を必要以上に取ろうとしないのは大山康晴十五世名人の流儀でもある。相手を見えない程に離してしまっては、出会い頭の一発というのがあるからかえって危険である。相手の射程距離ぎりぎりに身を置き、相手が一歩でも踏み込んでくれば許さんという態度こそ最良のものと、彼らは計算している。時として危機感が薄れるエリアのマークが甘くなるのは臨界線上に神経を集中しているがためである。

 これを、ああ羽生だって早い手を逃すことがあるんだな、まだまだスキがあるじゃないか、などと受け取っているようでは長い天下を許すことになるのは必定であろう。郷田は徐々に差を詰めてきてはいるが、羽生は相手との距離をきっちりと読み切っていた。7図。羽生は、先手が勝つにはこれしかないという一手を盤上に打ち下ろす。

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7図以下の指し手

▲2三桂△4二銀▲1一桂成△5一桂▲2六香△6六銀▲7三と△4七香成▲同金△4六銀▲同金△同歩▲2三銀△4一玉▲6三と (投了図) まで羽生竜王の勝ち

挟撃で決める

 ▲2三桂で▲6一飛などでは△5一桂で混沌としてくる。また、一見手筋風の▲4四歩は△同金と取られて角道を止めた代わりに後手玉の逃げ道を作ってあげるようなことにもなりかねない。

 ▲1一桂成として△5一桂を使わせ、▲2六香と挟撃して次に▲8八角を見せたのが鮮やかな決め手である。

 投了図では、後手玉に必至が掛かっていて、先手玉は△4七銀▲5九玉で即詰みはない。

 期待にたがわず、本局は二人の持ち味がよく出た熱局であった。展開に恵まれなかったため、郷田は持ち味が裏目と出た意味があるが、これは風向きが変われば吉と出ること故、ファンの方は御安心召されたい。二局目以降も、互いの意地と意地とが正面からぶつかり合う迫力満点の戦いを見せて欲しい。

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22歳の郷田真隆王位と羽生善治竜王の戦い。

中野さんの観戦記にも書かれている通り、お互いの持ち味と意地が真っ向からぶつかり合った一局だ。

中野さんの、

「郷田は一局の将棋に己が構想を盛り込まんとする棋士である。相手の後ろからひたひたと付いていってじっとスキをうかがい、相手が蹴つまずくか何かしたのを見咎めてこれ幸いとばかりブッ叩く、というような勝ち方はしないのである。どうだ、俺の将棋を見てくれと、相手にそしてファンに胸を張る」

「この図々しさの極致ともいえる大模様が郷田将棋の魅力である」

という文章が、郷田将棋の真髄・DNAを見事に表現している。

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NHK杯戦で郷田真隆九段が優勝を決めた。

昨年の郷田九段は、竜王戦、王座戦、棋聖戦と、挑戦者決定戦で敗れることが続いたが、

先週の月曜日で郷田真隆九段は43歳。

古来から伝わるどのような解釈をしても、完全に後厄から抜け出した形となる。

郷田九段の後厄抜けのスタートを飾るのにふさわしいNHK杯戦での初優勝。

新年度からはますますの活躍が期待できそうだ。