羽生善治七冠(当時)「始まる前には……同期、同学年ですし、そういう二人で名人戦を戦うんだなあという感傷のような気持ちもありましたけど、始まってしまえばそういうことはなかったですね」

将棋マガジン1996年8月号、羽生善治名人防衛、直撃インタビュー「ハードだった名人戦」より。

名人位防衛翌朝。将棋マガジン1996年8月号より、撮影は弦巻勝さん。

―名人防衛、おめでとうございます。まず最初に、今期のシリーズを振り返って、一局ずつ印象に残っている局面をあげてください。

(中略)

ギリギリのところで戦う

―定説では不利とされている将棋(4図)ですね。こういう形で指そうとか、普段から考えているんですか?

羽生「今度の名人戦は全体的にそうなんですけど、一応どこかで考えたことがあるような局面のうちの一つに、大体なっているんです。だから、最近研究したのではなくても、以前にちょっと考えたことがあるとか、実戦の変化でちょっと思い出したという感じです。昨日の将棋(第5局)もそうなんですけど、定跡でいいとか悪いとか、ギリギリのところで、がんばって指しているような感じなんです。無難にまとめれば無難に定跡型に進んでいくんですけど、お互いに目いっぱいがんばって指している感じですね」

―前に勝敗だけじゃなく、内容を重視したいとおっしゃっていましたが、その表れですか?

羽生「ええ、それもありますし、やっぱり初手から、あまり無駄な手がないように指したいと思っているんです。どの将棋も無難に定跡型に収まろうと思えば収まるんですが、それだけだとちょっと損をしたり、作戦負けになったりする可能性もあるんです。だから目いっぱいギリギリのところまでがんばって指す感じですね。定跡からはずれると、未知の領域なので、考えがいもあるし、すごく難しいですね。いくら時間があっても分からないところがありますし。だから思いついたアイデアみたいなものを大切にしたいと思っているんですよ。思いついてすぐやるとは限らず、1年、2年ぐらい温めて、研究してからやることもあります。アイデアだけ考えて、日の目を見ないこともありますし。やっぱり、せっかく一局の将棋を指すのなら、それなりに意味や意義のあるものを指したいというところもあります」

―あまり良くはないけど、思ったよりも微妙だという感じですか」

羽生「いや、いいか悪いか分からないからやってみるので、悪くなるならやりません。(第4局の将棋は)定跡では不利と言われていますけど、あくまで定跡が不利であって、絶対そうだとは言えないわけなんです。なんであの形が良くないのかというと、先に銀を損するからという理由があって、定跡ができているんです。でも銀を損しても、あとで桂香を取り返せるし、飛車も持っている。まあそれなりに筋道は通っているわけです。ただ正直に言うと、あの形に疑問を持ってやっているわけじゃなくて、駒組みの制約があるのを、ギリギリまでがんばるっていうことなんです。もし、相手がやって来なければ、かなり有効な駒組みができるという」

―周りの人と本人が思っているのは違うわけですね。

羽生「ああ、そこは多分、形勢判断の認識のところでは、かなり違うんでしょうね。正直言って、あの局面は私以外はやらないと思うんですよ。あまり他の人はやろうっていう気にならないと思うんです。そこの判断基準、いいか悪いか分からないからやってみようという基準が他の人よりも甘いのかもしれません。甘いというか、大雑把というか、そういうところがあるかもしれません」

幸運を感じた終盤

―一局返されて、昨日の第5局を迎えました。

羽生「公式戦で村山さんと指したことがあるし、類型が多い将棋ですね。後手がひねり飛車を封じるには、あの手になるんですよ。無難に収める手もありますが、最高に突っ張ると、やっぱりああいう展開になってしまいます。分かれとしたら、あまり良くなかったかもしれないですね。2日目のお昼休みくらいの時には、形勢が苦しいのを自覚していました。夕食休憩のところでは、全く嫌になっていました。こうやられても、ああやられてもダメっていうような感じで。ただ、一番最後のところは詰まなかったのには、びっくりしましたね。もう当然詰むと思っていたんですけど、読んでみたら一歩足りなくて詰まないのには。……研究会の全然別な将棋なんですけど、終盤であんな形になって、詰ましそこなった記憶があるんです。もしかしたらと思ったんですけどね」

―△6九銀(5図)を打たれた瞬間はどう思いました。

羽生「やっぱり時間をかけて指されたので、多分詰みを読み切っているんだろうと思いました。でも、詰むかどうか一応読まないと……。それで、かなり時間をかけて読んだと思うんですけど、詰まないので、もしかしたらと思って指したわけです。でもまさかあの将棋が逆転するとは思わなかったので……。△6九銀はプロの第一感で、大体詰めろなんですよ。いろいろな筋がありますけど、どうしても詰まない。ただ詰まなくても、馬がはずれて詰めろが消えることがありますから。詰めろ逃れの詰めろの可能性も残されていて、勝ちだとは思わなかったですね」

―はっきり勝ちを確認したのはどこですか?

羽生「一番最後ですね。△6六銀と打たれて、多分向こうが詰むだろうなというのが分かって……。本当に運が良かったとしか言いようがないですね。大体詰む形が、作ったように詰まなくて、滅多にないことかもしれません」

ハードな名人戦だった

―森内八段とは初めてタイトル戦で戦ってみて、何か今までと違った印象はありましたか?

羽生「始まる前には……同期、同学年ですし、そういう二人で名人戦を戦うんだなあという感傷のような気持ちもありましたけど、始まってしまえばそういうことはなかったですね。彼はタイトル戦の登場が今回初めてですが、とてもそう見えないくらい落ち着いていたし、雰囲気になじんでいた感じでした。2日制の長い将棋は向いているでしょうし、中身を見てても、事前に対策というか研究をかなりしてきたような印象を持ちました」

―森内八段が封じ手の前にギリギリで指したことが話題になりましたが……。

羽生「ただ、ルール違反ではないですからね。今まではそういう習慣が自分自身になかったし、指されたこともないので、びっくりした気持ちも、もちろんあるんですけど、よく考えてみれば勝負のうちですしね。当たり前のことなんですけど、別にいつ指してもいいわけですから……。そういうことを思いました。だから、すごく新鮮な感じに映りました。厳密に勝負としての将棋を考えると、全然おかしいことじゃないし、始まったら、格好のいい悪いとか言ってられませんから」

―今期の名人戦、森内八段は全局残り1分ですし、二人とも目いっぱい時間を使ったシリーズですね。

羽生「やっぱり、それだけ熱戦が多かったということだと思います。今までの名人戦だと、時間的に目いっぱい行くことは少なかったですけど、今回は全部遅くなりましたね。それも実は、シリーズが始まる前から予想していたんですけど。9時間制で目いっぱい時間を使って、精神的にも肉体的にもハードな名人戦だったな、というところはあります。たとえば、森内さんがいろいろな作戦を持ってきたり、封じ手みたいなところで指されたり、いろいろあったから、結構ハードな名人戦だったと思います」

棋聖戦に全力投球

―次は棋聖戦が始まりますが、挑戦者は昨年と同じく、三浦五段になりました。

羽生「連続して挑戦者になったということで、彼自身もかなり自信を持ったんじゃないかと思いますね。昨年とまた違う気持ちで臨んでくるでしょう。彼の将棋は本当に独特な感じがありますね。名人戦が終わったので、今度はそちらの方に全力投球でということになると思います」

―結婚されてから、生活のリズムとか、変わりましたか?

羽生「2ヵ月ちょっと経ちましたけど、独り暮らししてる時と、やっぱり生活習慣みたいなものは変わりますね。生活サイクルが前は不規則でしたけど……。規則正しくまではいかないまでも、一応決まったサイクルができつつあります」

―普段の一日はどんな感じでしょうか?

羽生「日によって違うんですけど、7時半、8時位に起きることもあれば、お昼近くまで寝ている時もあります。私、毎日欠かさずこれをやるという日課らしきものが、ほとんどないんですよ。将棋の研究とかも、やる時間を決めていません。だから空いた時間に、長さもバラバラです。今の季節は少しは余裕があるんですが、これから7月、8月になると、どんどん忙しくなっていくので、またそこでペースをつかむのが、ちょっと大変かなと思っているんです」

―お二人で一緒になされる趣味とかあるんでしょうか?

羽生「そうですね。買い物に出かけたり、ドライブしたり……。あとは、うちの目の前にゴルフの練習場があるので、行ったりします」

―ゴルフを始められたんですか。そのうちコースに出るとか?

羽生「うーん、まだだいぶ先の話になるかもしれませんが、そういう可能性もあるかもしれません」

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4図は有名な局面。

振り飛車あるいは振り飛車退治の定跡書には数多く出てくる。

振り飛車不利と言われていても、飛車が大好きな振り飛車党の人にとってはついついやってみたくなる局面だ。

このような局面に踏み込んでくれた羽生善治七冠。リアルタイムで見ていたなら、感動で鳥肌が立っていたと思う。

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「どの将棋も無難に定跡型に収まろうと思えば収まるんですが、それだけだとちょっと損をしたり、作戦負けになったりする可能性もあるんです。だから目いっぱいギリギリのところまでがんばって指す感じですね」

将棋の発展は、このような歴史の積み重ねだったのだろう。

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「定跡からはずれると、未知の領域なので、考えがいもあるし、すごく難しいですね。いくら時間があっても分からないところがありますし。だから思いついたアイデアみたいなものを大切にしたいと思っているんですよ。思いついてすぐやるとは限らず、1年、2年ぐらい温めて、研究してからやることもあります。アイデアだけ考えて、日の目を見ないこともありますし。やっぱり、せっかく一局の将棋を指すのなら、それなりに意味や意義のあるものを指したいというところもあります」

これらの部分を全て自分の頭でやってきたことが、無類の強さにつながるのだと思う。

ところで、今はコンピュータソフトを活用できる時代だが、少なくとも、全ての部分をコンピュータソフトに任せてしまっては、強くなったとしても限界があるような感じがする。

もちろん、コンピュータソフトの効率的・効果的な使い方もあるので、コンピュータソフトとの付き合い方の塩梅加減が、これからも重要な課題になっていくのだろう。

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「いいか悪いか分からないからやってみるので、悪くなるならやりません」

これは、実生活でも心掛けるべきことだと気付かされる。

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「正直言って、あの局面は私以外はやらないと思うんですよ。あまり他の人はやろうっていう気にならないと思うんです。そこの判断基準、いいか悪いか分からないからやってみようという基準が他の人よりも甘いのかもしれません。甘いというか、大雑把というか、そういうところがあるかもしれません」

このようなところも、羽生善治九段の強さの源泉の一つなのだろう。

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「始まる前には……同期、同学年ですし、そういう二人で名人戦を戦うんだなあという感傷のような気持ちもありましたけど、始まってしまえばそういうことはなかったですね」

森内俊之八段(当時)との初めてのタイトル戦。

周りから見ていると感慨深い思いに浸りたくなるけれども、対局者同士は戦いが始まってしまえば、あるのは盤上の世界だけ。

羽生善治名人と森内俊之九段が出会った頃→「森内君を連れて来てもいいですか?」

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「森内八段が封じ手の前にギリギリで指したことが話題になりましたが……」

1日目の午後5時29分過ぎ。記録係が指しかけの図面を書き込み、立会人が封じ手を促した直後に、森内八段が「え、指すつもりだったんですけど」と言って、△9四歩を着手した。

森内八段は単に封じ手をやりたくなかっただけだったのだが、羽生七冠を困惑させる陽動作戦なのではないかと誤解をした人が多かった。

「封じ手事件」の真相

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「ただ、一番最後のところは詰まなかったのには、びっくりしましたね。もう当然詰むと思っていたんですけど、読んでみたら一歩足りなくて詰まないのには。……研究会の全然別な将棋なんですけど、終盤であんな形になって、詰ましそこなった記憶があるんです。もしかしたらと思ったんですけどね」

△6九銀(5図)とその応手の周辺についてのドラマは、明日の記事で。