将棋世界1995年3月号、「棋士交遊アルバム 角川歴彦(角川書店社長)&中原誠(永世十段) 我ら高柳一門の兄弟弟子」より。
昭和33年の本誌の奨励会ページに『6級 中原誠 高柳門』の記載がある。中原少年が奨励会に入会したばかりの頃だ。そして、その横の初等科(現在の研修会に近い機関)ページに『10級 角川歴彦 高柳門』の名前があった。そう、二人は高柳敏夫名誉九段一門の兄弟弟子だったのである。その後の歩みは全くちがうことになった中原誠永世十段と角川書店社長の角川歴彦氏が、当時の思い出とエピソードを懐かしく語った。
将棋好きのお父さん
中原 お父さんには、非常によくしてもらいました。めちゃめちゃに将棋が好きでしたね。
角川 父(角川書店創業者の角川源義氏)はほかの楽しみがまるでなかった。私を初等科に入れたのも、自分の子が将棋連盟に行っているのが自慢だったんです。当時、高柳先生が社長室にレッスンに来ていて、私も一緒に指導を受けました。その縁で高柳門下に入り、中原さんとも兄弟弟子の間柄になったわけです。
中原 荻窪の角川邸には、盤を磨きに一人でよく行きました。いっぱい盤駒がありましたね。その中に関根十三世名人が秘蔵していた「関根盤」があり、昭和47年に名人戦の挑戦者になった時、お父さんがその盤をくれたんです。就位式でも祝辞をいただきました。
角川 父は酔っぱらうと将棋の相手を私にさせた。そして最後に勝つまでやめない。でも自分は譲れなかった。わざと負けるのは許せない気分だった。高校か大学の頃、両親と熱海へ旅行したんです。父はその時、勝ったら車を買ってくれるといった。それでも私は……。最後には、父は盤をひっくり返した(笑)。
中原 お父さんへの反発心もあったんですか。
角川 そうかもしれません。初等科に入る時は相談なしで、やる気になってきたら、突如やめさせられました。子供心に父のことを理不尽と思っていたんですね。
中原 お母さんはやさしい感じの方でしたね。
角川 その父も亡くなって20年たちました。卓上盤に父の俳句が書いてあります。
何求めて 冬帽ゆくや 切通
初等科時代の頃
角川 中原さんは小学生の頃から注目されていましたよね。週刊朝日で天才少年あらわれるという記事を読んだ。そのせいか、マコッちゃんは近寄りがたいイメージだった(笑)。寡黙でしたね。
中原 棋士になれば、しゃべらなくていいと思っていました(笑)。
角川 当時は升田・大山時代で、二人の対決は死闘という感じだった。
中原 師匠に連れられて、羽沢ガーデンでの名人戦を見ましたが、すごい厳粛な雰囲気でしたね。
角川 昭和32年の8月、升田名人の名人奪取記念将棋大会が浅草雷門の伝法院であったんです。私はそれに参加しました。
中原 あっ、私も出ましたよ。
角川 記念品は升田名人署名の「新手一生」の扇子。あれ、持っていますか……。
中原 当時、あるニュース社が私を追っかけていて、その関連で升田先生と一緒にとった写真があるんです。升田先生はいやそうな顔をしていましたね(笑)。
角川 大会の成績はどうでした。私はおぼえていません。
中原 当時の私はアマ3級ぐらい。BかC級でたしか2勝2敗でしたね。師匠からは、三段になったら奨励会に入れてあげるといわれました。ところで、初等科時代はいかがだったですか。
角川 中原さんは初等科の経験はないんですね。あれは当時、中学生以下の少年少女を集めた会で、名人の卵の会ともいいました。奨励会の予備校みたいなもので、金先生(今易二郎名誉九段)が受け持ちでした。一日に3番指すんですが、続けて緊張して指せない。2勝1敗が上できでしたね。中には、私に負けると怒るお父さんがいて、外でその子をぶっている。それを見ちゃうと、ああ、これじゃ勝てないと思ったりして……(笑)。
中原 今の棋士で、どんな人がいましたか。
角川 桜井さんと親しかったかな。蛸島さんは田舎から出たてという感じの素朴な女の子。一番おちついていたのは安恵さん。米長さんは、あの頃からあんちゃんで、同じ年には見えなかった。米長さんとはふしぎにウマがあった。米長さんとはその後、大学時代に二枚落ちで指して勝った。米長さんは四段をくれるというが、父が三段だったので遠慮しました(笑)。じつは中原さんとも1局指したことがあるんですよ。
中原 あっ、そうですか。おぼえていません。
角川 高柳道場で指したんでしょうね。香落ちで指してもらい、私が負けました。
30年越しの四段免状
角川 当社は2年前の夏、ゴタゴタしたことがあって、皆さんに大変ご心配をおかけしました。その時、各界の方々が「角川の将来を考える会」を設立して下さり、いろいろとご支援していただきました。中原さんはその発起人のお一人で、ほんとうにありがとうございました。
中原 角川家には昔からお世話になっています。少しでも力になれれば幸いです。
角川 その後、私が社長になり、現在ようやく安定しました。来年には新社屋が完成します。
中原 それはよかったです。最近は将棋をお指しになりますか。
角川 社長業が多忙で機会がなかなかありません。それと、いいかげんに指すのは、将棋を冒涜するようでイヤなのです。
中原 今日は対談のお礼に、四段の免状を用意してあります。どうぞ、お受け取り下さい。
角川 大変うれしいです。
中原 大学時代の話が、30年後にやっと実現しましたね(笑)。
角川 私からも中原さんに、お礼に焼き物を近々贈ります。自分の俳句を皿に焼きました。ぜひ受け取って下さい。
中原 ありがとうございます。
木守柿 この道の他 吾になし
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角川歴彦氏は1943年生まれで、中原誠十六世名人よりも4歳年上。
ちなみに、角川歴彦氏の誕生日は9月1日で、中原誠十六世名人の誕生日は9月2日。
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角川歴彦氏は、1992年9月に経営路線の対立で兄の角川春樹氏により角川書店副社長を辞任させられた。
しかし、角川春樹氏は1993年8月29日、コカイン密輸事件により逮捕され、角川書店社長を退任。
メディアワークスを創業し社長となっていた角川歴彦氏は1993年9月に顧問として角川書店復帰、同年10月に社長に就任した。
この対談が行われたのは、角川歴彦氏が社長となってから1年3ヵ月後のことだった。
角川歴彦氏は現在、 株式会社KADOKAWA取締役会長。
今年の5月14日に、株式会社KADOKAWAと株式会社ドワンゴが経営統合し10月1日付で共同持株会社「株式会社KADOKAWA・DWANGO」を設立することが発表されている。
→「若き経営者をようやく手にした」ドワンゴ・川上氏への期待を語る角川氏(INTERNET Watch)
角川歴彦氏は新会社では取締役相談役となる予定。
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角川書店は、1945年、国文学者である故・角川源義氏によって創業された出版社で、国文学関連書籍に強みを持っていた。
私が角川書店の名前を初めて知ったのは、将棋世界に書かれていた角川源義氏の随筆を読んだ中学3年の時のことだった。
高校に入ってみると、古文の教科書が角川書店。
しかし、古文と漢文の授業は全く理解が出来なかった。
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高校2年の夏休み、それまで小説を真面目に読んだことがなかったので何かを読んでみようと思って、立ち読みをすることもなくたまたま選んだのが、江戸川乱歩「芋虫」。
題名がおどろおどろしいので「芋虫」にしたのだと思うが、それが角川文庫だった。
ちょうどその頃、角川文庫ではエンターテインメント路線に力を入れはじめた時で、横溝正史作品などとともに江戸川乱歩の作品も次々と刊行されていた。
小学生の頃に図書室で、怪人20面相や少年探偵団が出てくる本を何冊か読んでいたので、江戸川乱歩にしてみようと思ったのだが、「芋虫」は、明智小五郎も20面相も少年探偵団も出てこない、少なくとも子供向けではない小説。
それでも江戸川乱歩の世界に惹き込まれ、一気に「陰獣」「孤島の鬼」「黒蜥蜴」「パノラマ島奇談」「魔術師」「黄金仮面」「一寸法師」 「白髪鬼」「蜘蛛男 」 「地獄の道化師」「悪魔の紋章」「三角館の恐怖 」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「D坂の殺人事件」などを読んだものだった。
大正から昭和初期の作品が多いため、絶世の美女が「ギン」のようなお婆さんみたいな名前だったりして、そのような部分でも楽しめた。
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大学に入ると同時に、メディアミックスを駆使した角川映画が制作され始め、大きな話題となった。
大学1年の時の「犬神家の一族」、2年の時の「人間の証明」は、毎日のようにテレビでCMが流されていた。
特に、故・ジョー山中さんが歌った「人間の証明」の主題歌を聞くと、大学2年の頃のことが頭の中に鮮やかに蘇ってくるほど、私の中には刷り込まれている。
そう考えてみると、私の高校2年から大学2年までの思い出に、角川書店は大きく関わっていたということができるのだろう。
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今日は14:00から「将棋電王戦に関する記者発表会2014」が行われる。
KADOKAWAとドワンゴが経営統合するといっても、電王戦に急激な変化があるとは考えられないが、どのような発表となるのか興味深い。