近代将棋1989年6月号、団鬼六さんの鬼六面白巷談「酔いどれ天国」より。
二日目は高知のホテル、三翠園に宿泊、相変わらず、夜の宴会では社長の膳の前には銚子が乱立している。朝も酒、昼も酒、そして、夜も酒ではいくら社長がタフでもお年がお年だから、身体にさわらぬ筈がない、と、大山名人もこのあたりから少し、気になったらしく、社長はああ見えても、肝臓がそんなに丈夫じゃないんですよ、と、私に耳打ちされた。社長には長生きして頂きたいのだから、もう少し節制して頂きたいものですね、と、いわれた。胃も肝臓も丈夫な人なんだから、あんなに酒が飲めるものだと思っていたが、そうではないと知らされると、これは問題である。社員達もかなりその事を気づかっているのではないかと想像出来る。社長の方は酒の好敵手が現れたとばかり、私に向かって、挑みかかっているのではないか。これは少し、迂闊であったと私は感じとって今夜は酒の延長は御辞退して社員のKさんと将棋を指す約束をしたが、Kさんは将棋盤を社長の部屋に持ちこんでしまった。少し、間を置いてから社長の部屋に向かうと、もう社長は部屋にいて、仲居さんにまた、酒を注文しようとしている。私は、朝からずっと飲み続けていらっしゃるのだから、少しは御自分の内臓のことを考えて節制しちゃどうですか、と、こっちも酔っている勢いで意見すると、社長、むっとした顔つきになり、あめえ、酒の事で俺に意見するなんて、十四年早い、といった。十年早いのぢゃなくて、十四年、早いとハンパな数を出したのは俺はお前より十四才年上だぞ、という意味であるらしい。つづいて、何か、ごちゃ、ごちゃ、いい出したが、結局、それを漢文詩風に翻訳すると、身の後金をうづ高くして北斗を支ふるも生前、一樽の酒に如かず、といった勧酒詩の一節になるわけだ。節酒して、少しでも長生きしなけりゃならない人というのは大山名人のように人間国宝的な人でなければならぬ、といって、さ、飲め、とばかり運ばれて来た銚子を手にとって私の方に向け、次には、おい、若いの、この傷が眼に入らぬか、とユールブリンナーみたいな光沢のある頭をヌーと私の方に向けてくる。若い頃、与太者と喧嘩して切られた傷あとを教えてくれるのだったが、そんなものは何も酒を節制しろ、しないに関係のない事だけれど、酔って時々、調子っぱずれになっても、奇抜で洒脱な言葉がポンポンとこの人の口から飛び出してくる。
(中略)
飲めよ、ああ、飲まないでか、と、私もはたひらき直った気分で、御意見無用の人にはもう何をいっても仕方がない、と自棄になって盃を手にしたが、すると、社長、すっかり嬉しそうな表情になって、私の盃に酒を満たしながら、せっかく、こうして旅に来て、楽しく酒を飲んでいるんだ、酒をひかえろだなんて野暮な意見してくれるな、と、覚すようにいうのだった。そんな社長を見て、私はふと、広島の愛棋家、高木親分の事を思い出す。この人は広島から横浜の私の家に遊びに来て、一切、外に出ず、三日三晩、横浜の強豪あいてに将棋を指しまくっていた。たまには外の空気を吸いに出ようじゃありませんか、と誘っても、お願いぢゃけに、このまま、将棋を指させてくれちゃれ、と、哀願的眼差しを向け、頑として外出を拒んだが、その将棋を酒に置きかえると七條社長の場合になる。ホテルへ到着すると、でんと腰を据えて酒びたりであり、芸者でも連れて表へぞろぞろ歩きにでも出かけりゃいいのに動こうとはしない。もっとも、どこかへひょろひょろ飲みに出かけられるより、ホテルでゆっくり飲んでくれていた方が社員としても安心ではあるのだが。
秋はバリ島へ行く、そこでまた、大いに飲もう、というから、御好意は有難いけれど、私はあなたより若いのだから、一緒に飲みくらべでもやってりゃ、あなた、寿命が縮まりますよ、というと、社長、また御機嫌が悪くなる。何いってるんだ、あめえの酒なんぞ、俺にくらべりゃ、将棋でいうなら角落ちの手合いだ、と、きたもんだ。そんな風にポンポンやりこめて来て、その次には破顔一笑、いやあ、気に入った、俺に楯つきやがって、よ、若えの、これからも、よろしくつき合おうぜ、と急に握手して来て、また、ヌーッと光沢のある頭を私の方に突き出し、おい、この向こう傷が眼に入らぬか、などといっている。広島の高木親分も一緒に飲んだ時、急にヌーと頭を私の方に押しつけて来て、そら、見てつかあさい、と、かつての若気の至りの向こう傷を私に見せたが、これは一つの酔癖であるらしい。とにかく七條社長と飲む内にタイムカプセルに乗って青春期―非行と場所を選ばず夜探しした無責任なあの時代―に逆戻りした気分になってくる。こういう倒錯した気分に浸れるのが酒飲みの特権であり、楽しみであってこれは到底、酒を飲まない人にはわからないだろう。秋葉原の大将は酔って得意に昔話をしているのではない。酒の力で動くタイムカプセルに乗って青春期の自分に立ち戻っているのである。与太者と喧嘩したのもついさっきの出来事であり、升田幸三を連れて悪所で飲んでいたのもつい昨日の事であり、だから、大将の口から飛び出してくる囲碁、将棋の棋士などもすべて未熟な若さの時代が登場する。大将自身が熱情の時代の人間に成り切っているのである。
熱情さえあれば九十才になっても青春でいられるという事を知ったのは私にとっては一つの大きな収穫でもあった。私だって、未熟で無知な時代を経て、今ではすっかり環境が変わり、横浜の悪者の中でもちょっとは知られた顔となり、横浜彫友会という刺青愛好会五十人の顧問であって若い衆にしょっちゅうヂヂムサイ説教しているのだが、この大将にかかってはかなわない。ま、何というか田舎大名が信長の前に伺候した気分なのであって、しかし、それにしても、よ、若いの、とか、よ、若造なんて呼ばれると、ほんとに若返った気分ですっかり嬉しくなってくる。大学時代の大先輩と大酒飲んで、いい争ったり、抱き合ってはしゃいだような遠い昔が生々しく蘇ってくるのだ。
三日間の行程を終えて、最後は松山市内の民芸会館でショッピング。このあとは松山空港から羽田へ飛んで解散となるわけだ。少し、土佐あたりを取材してみるつもりだったが、酒に追われそんな余裕は全くないというていたらく、おざなりに観光地をバスで廻っただけで、はじめて足を踏み入れた四国路のニュアンスめいたものも浮かび上がって来なかった。そのかわり、四国の地酒はふんだんに飲み廻った気分で、私はショッピングセンターの中を飲み疲れのぼそんとした顔で夢遊病者のようにのそのそ歩いていたようだ。三木清の人生論ノートには、人はその人、それぞれの旅をする、人生そのものが旅なのである、などと書いてあるが、嘘こけ、人生は酒ぢゃないか、と、朦朧とした頭をひねってうめいてみる。人はその人、それぞれに酒を飲む、人生、そのものが、実に酒なのだ、と作り直してみて、これぢゃ、まるで、芹沢九段だな、と、自分で苦笑した時、店内の片隅で右に左にひょろ、ひょろしながら誰かをしきりに探している七條社長の姿を見た。誰を探しているのだろうと近づいて見ると、社長は私の顔を見るや、あ、いた、といって、こっちの手をつかみ、すぐ近くの飲食コーナーに連れて行く。ここには酒がある。と社長、嬉しそうな顔を見せ、昨日までの君の酒の飲み方で準合格を認めよう、と、また、おかしな事をいい出した。とにかく、ここが、飲みおさめの場だな、といいながら社長、どっこいしょ、と、テーブルの前に坐りこむ。社員達がショッピングをしているそのわずかの隙に抜け目なく飲む気でいるのだ。それがプロの飲み方というものだろう。まるで、この人、ヤマタのオロチだな、と私は新ためてしげしげと七條社長の赤みを帯びた顔立ちを見つめてみる。「さて、飲むか」と、挑んで来たので私は飲み疲れのしゃがれた声で、「おお、飲まいでか」と、捨鉢になって応じた。社長は満足そうにうなづき、注文をとりに来た女の子に「姐さん、熱燗、これだけ」といって片手の掌を大きく広げて見せた。
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人を魅了する強烈な個性。
七條兼三さんも団鬼六さんも、将棋界にとっての大旦那だった。
この二人が現世にはもういない、ということがとても淋しく感じられる。
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文中に出てくる広島の愛棋家・高木親分とは、広島の元・テキ屋の親分だった故・高木達夫さんのこと。
高木達夫さんは、飯干晃一著「仁義なき戦い」にも名前が出てくるほどの大物会長だった。昭和40年代初頭の引退時は、地元の中国新聞でも写真入りで取り上げられている。
高木さんは、会長引退後の、大型アマチュア大会の創設、将棋会館建設などへの功績で、日本将棋連盟から七段を贈呈されている。
2009年に私とバトルロイヤル風間さんが将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞を受賞することとなった「広島の親分」は、高木達夫さんについて書いた作品。
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近代将棋1998年6月号、湯川博士さんの「アマ強豪伝 七條兼三 その2」の中で掲載されている貴重な写真。
左から、高木達夫さん、最後の真剣師・大田学さん、湯川恵子さん、七條兼三さん。撮影は湯川博士さん。
ワクワクするほどの凄い顔ぶれだ。