将棋世界1989年5月号、内藤國雄九段の「懸賞詰将棋&エッセイ」より。
古いイタリア語の諺に「王も歩も、ゲームが終われば一つの箱におさまる」というのがあると聞く。
これを聞いて、故・熊谷八段の次の言葉を想い出した。
「将棋の駒はね、戦いがすむと敵も味方も全部一つの箱におさまる」
さも感心したようにこう語って次のようにつけ加えた。
「最近このことを発見してね、何かで発表しようと思っている」
そして発表の機会もないままに逝かれた。代わりに私が発表させて頂くということになるのだが、正直言って、熊谷さんからこの話を聞いた時は何も感じなかったので、そのままきれいに失念していたのだった。
死を予感されての深い意味合いがこの発見の中にこめられていたのだ―ということを今にして気づく。
チェスにおいては、ゲームが終われば王も歩も一つの箱に入れるが、敵と味方は別々の箱にしまう。
仮に一つの箱に入れても、間に間仕切りを入れて分けるようにする。
大体が色分けによって敵味方が分かれており、これは永久にそうであり一つになるということは考えられない。
ひとり日本の将棋だけが、ゲームが終わると王も歩も、敵も味方も一つの箱におさまってしまう。
人生は一局の将棋なりという、その人生のゲームも終われば……。
現代では、特に日本では階級意識は殆んどなくなっているといってよい。
それでもいろいろなランク付けや役付けといったものがあり、それが人を悩ませるということがよくある。
ただ熊谷さんは、このことより敵・味方の区別の方に重点を置かれていたように思う。
一寸したことで人間は敵味方に分かれ、一生遺恨を残すということがよくある。
利害に意地や感情がからまるとますますほどけなくなる。そういう例が世間にいくらでもころがっている。
将棋の場合でも、その勝負の辛さがしばしば深い傷を残す。
熊谷さんがこの辺の事を気にされていたであろうことは、同じ棋士としてよく分かるような気がする。
戦いが終われば、仕事を離れれば、地位のこととか敵味方のこととかきれいに忘れて仲よくしよう。
これが将棋の駒から我々が得る教訓である。
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昨日、西武ドームで「リアル車将棋」羽生善治名人-豊島将之七段戦が行われた。
→電王戦 × TOYOTA 「リアル車将棋」開催決定 対局者 : 羽生善治名人 vs 豊島将之七段 (TOYOTA)
私もニコ生で最初から最後まで見ていたが、斬新でとても面白い企画だった。
「リアル車将棋」は人間将棋の自動車版というようなもので、羽生名人側の駒となるのはトヨタの”過去の名車8車種”で、豊島七段側の駒になるのは事前投票で選ばれた”現行車8車種”。
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駒がぶつかりあっている所では、それぞれの車が至近距離で向かい合っていて、相当な迫力に感じられた。
もちろん、車同士がぶつかり合って相手の車をボロボロにした方がその陣地(枡目)を取れるというわけではなく、将棋なので、取った駒(車)は駒台へ移ることになる。
羽生陣は過去の名車、豊島陣が現行車だけだったものが、戦いが進んで持ち駒を使ったりしているうちに、羽生陣も豊島陣も過去の名車と現行車がミックスされた形となる。
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昔のテレビドラマ「西部警察」のスポンサーは日産自動車だったが、ドラマの中での警察側の自動車は日産製、犯人が使う自動車はトヨタ製だったと何かで読んだことがある。
今回の「リアル車将棋」も、先手陣と後手陣がそれぞれ違うメーカー製ならもっと戦いの要素が強くなるのかな、と一瞬考えたりもしたが、持ち駒が使えるのでやっているうちにメーカーが混合状態になってしまうわけで、全く意味がないことにすぐ気がついた。
「リアル車将棋」は1社の自動車だけで完結させるところに意味がある。
今日の内藤九段のエッセイもそうだが、将棋の持つ唯一の優しさが、この部分なのかもしれない。